3.アッ=ラーズィーの注釈書(مفاتيح الغيب، التفسير الكبير/ الرازي)(要旨)

●どうしておまえたちにアッラーを否定できようか(未完了形)。御前達は死んでいたが、彼が御前達を生かした(完了形)。それから彼は御前達を死なせ、それから彼は御前達を生かし、それから御前達は彼の許に戻されるのである(未完了形)〔2:28〕
 2章28節から40節にかけては義務を負う者*1全てに与えられた4つの恩寵が説明されている。その内の1つが、生命を与えられたことであり、この節の主題である*2
[1]《論点2》学者達は「御前達は死んでいた」が人々が土や精子であったことを意味しているという点で一致している。というのも、アーダム(アダム)の創造は土に始まり、全ての義務を負う者はイーサー(イエス)を除き精子から創造されたのであるから。

 但し、無生物に対する「死」という言葉の使用が、本義(حقيقة)であるのか転義(مجاز)であるのかに関しては諸説あり、①転義であるというのが多数説である。他方、②カターダからの伝承は本義と捉えている。有力説は前者であり、その根拠は、「人間には、(人間と)呼ばれるようなものでなかった時期があったではないか。」〔76:1〕とのアッラーの御言葉*3や「これは死んだことである」といったアラビア語の表現である*4
[1]《論点3》ある人々はこの節をもって墓中での懲罰が誤りであるとする。というのも、神は現世で1回来世で1回彼らを生かすとしており、墓中での生に言及されない。これを確認するのが、「それから、まことにおまえたちはその後、死ぬ定めにある。それから、まことにおまえたちは審判の日に、甦らされる。」〔23:15-16〕というクルアーンの章句であり、神は現世と来世との間の生について言及されない。また、「我らが主よ、あなたは我らを2度死なせ、2度生かし」〔40:11〕を墓中での生の根拠にすることは許されない、なぜならこれは不信仰者の発言だからである。さらに多くの人々はクルアーン7章172節によって「原初契約」の際に引き出された粒子*5の生を確証しているがこれによって墓中での生が存在せずとも2つの死と生が存在することとなる*6
 これに対する回答は、(墓中での生が)この節に述べられていないからといって、それが存在しないとは限らないということである。さらに、神が2章28節において墓中での生について述べられていると論じることも可能である。というのも、「彼は御前達を生かし」の生は永遠の生ではなく、さもなければ「それから御前達は彼の許に戻されるのである」が正しくなくなるからである。というのも、「それから」というのは時間的間隔を要求するのだが、神の許への召還は時間的間隔なしに永遠の生の直後に起こるからである。従って、この章句を墓中での生の根拠とした方がより適切なのである*7
●彼らは言った、「我らが主よ、あなたは我らを2度死なせ、2度生かし、そして我らは我らの罪を認めました(完了形)。それで、脱出への道はあるのですか(名詞文)」〔40:11〕。
[2]《論点1》大部分の学者達(ウラマー)は40章11節を墓中での懲罰を確定する根拠としている。というのも、人間が「あなた(=神)はわれらを2度死なせ」と述べている箇所があるが、2つの死の1つが現世で見られるものである故、第2の死の前には墓中での生が確定される必要があるから。従って、同節は墓中での生を示すのである*8
 これに対し、以下のような問いがあり得る。
《問1》大多数の注釈家達が第1の死とは精子や母胎での凝血の状態を指し、第2の死とは現世での死を指すと述べているが、なぜ(この章句も)このように解釈されないのか。我々の主張を裏付けるのは、クルアーンの2章28節であり、「御前達は死んでいた」とは精子や凝血を指す。また、「死なせること」(الإماتة)にはあるものを死んだもの(無生物)として創るの意味と、生きていたものを死んだものにするとの2つの意味がある*9
《問2》これ(〔40:11〕の内容)は不信仰者の発言であり、明証とはなり得ない*10
《問3》この章句は墓中の生が起こり得ないことを示している。というのも、仮に墓中の生が起こるのだとすれば、3回の生が起こることとなる。すなわち第1回が現世、第2回が墓中、第3回が復活の日である。しかしながら、章句に述べられている生は2回のみであり、第1回が現世の生、第2回が復活の日の生であり、両者の間に現世での死が存在するのである*11
《問4》この章句が墓中での生の出来を示すとしても、その不在を示す啓示的(المنقول)および理性的(المعقول)根拠が存在する。

 啓示的根拠としては、
①クルアーンに「夜の時間に謙り、跪拝し、立礼し、来世を警戒し、その主の御慈悲を期待する者がか」〔39:9〕とあるが、ここに述べられているのは来世の警戒のみであり、もし墓中の生があるのだとすれば間違いなくそれへの警戒も言及されていたであろう。それが警戒されていないことにより、我々はその不在を知るのである*12
②クルアーンに楽園に入った信仰者の言葉として「われらは死ぬ者ではないのか。われらの最初の死のほかには」〔37:58-59〕とあり、楽園の民の言葉が真実で正しいことに疑念の余地はないが、もし墓中での復活が生じたのであれば、彼らは2回死んだはずであるが、2回の死は同節と矛盾する。また、この節の証明力は楽園に入った信仰者の言葉であるために、火獄に入った不信仰者の言葉である40章11節よりも優勢である*13

 他方、理性的根拠としては、
③仮にライオンに襲われて食べられてしまった者が生者に戻されたとしたら、全体としてあるいは各部位が蘇らせられるかのいずれであるが、全体として蘇ることが不可能なことは感覚・良識(الحس)によって明らかであり、各部位が生者となるとすればライオンの胃や腸に於いて各部位が生者となることになるがこれは最もあり得ないことである*14
④死者を衆目に見えるように放置したとすれば、人々は死者が死んだままであり続けるのを見るであろう。このような状態を指して「死者が蘇った」と言われることを許すとすれば、それは感覚により認識されるものに対し疑念を抱かることであり*15、詭弁に陥る*16
 これらの問いに対する回答は以下のとおりである。
《答1》第1の死が精子の状態を指さないのは何故かとの問いであるが、我々はそれは不可能であると答えよう。その理由は、「あなたは我らを2度死なせ」〔40:11〕とあるが、「死なせる」という言葉はそれ以前に生が存在することを前提条件とする。つまり、死んでいるものを死なせることは出来ないからである。
 これに対し、「どうしておまえたちにアッラーを否定できようか。御前達は死んでいたが、彼が御前達を生かした」〔2:28〕の章句は事情が違う。なぜなら、2章28節は彼らが死んでいたことを示しているのであり、神が彼らを死なせたとは述べられていない。これにより、両者の間に差異が生じたのである*17
《答2》40章11節の内容が不信仰者の発言であり明証とはなり得ないとの問いであるが、我々の答えは以下のとおりである。(同節以降において)神は彼ら不信仰者の言葉を嘘であるとしていない。もし、彼らが嘘をついていたのであれば、神は彼らの言葉を嘘とした筈である。これは「我らが主アッラーに誓って、我らは多神教徒ではなかった」〔6:23〕との不信仰者の嘘が、「見よ。彼らが自分自分にどのように嘘をついたかを。」〔6:24〕とアッラーによって嘘であるとされているのに明らかではなかろうか*18
《答3》墓中での復活が起こるのだとすれば生を受ける回数が3回となるため生の回数を2回とするこの章句は墓中の生が起こり得ないことを示しているとの問いであるが、我々は次のように答えよう。
①(40章11節の)話者が述べているのは、試練の時の順列でありそれは4つである。すなわち、第1の(現世の)死、墓中での生、第2の(墓中での)死、復活の日の生である。他方、現世での生は試練の時に含まれないため言及されない*19
②同節の話者は2つの生、すなわち現世の生と復活の日の生について述べたが、彼らは墓中での生が存在として小さく期間も短いために言及を省略したのであろう*20
③同節の話者は墓中で生者となった後に死なずに幸福のうちにあるいは不幸のうちに復活の日まで生き続けたのかも知れない*21。そうであるとすれば、彼らは「天にいる者も地にいる者も、アッラーが御望みの者を除いて気絶した。」〔39:68〕に言われる例外的存在なのであろう*22
④もし墓中での復活を確定しなければ、死の回数は1回のみとなり、2回の死の確言が虚偽となるがこれはクルアーンの文言と矛盾する。もし墓中での復活を確定すれば、3回の生を確定する必要があるが、クルアーンに述べられているのは2回の生であるところ、第3回の生についてはクルアーンの文言の中にはこれを肯定するものも否定するものも存在しない。他方、墓中での生を否定することがクルアーンの文言の指示内容を放棄することに繋がることは明らかである。それに比して、墓中での生を確定することはクルアーンの文言の指示内容に対する付加的な事項を確定することに繋がり、また同文言は付加的事項を否定も肯定もしないのであるから、こちらの方が優勢である*23
《答4》墓中での復活が起こらないことを示す啓示的及び理性的根拠が存在するとの問いに対し我々は以下のように答える。
 啓示的根拠に関するもの
①クルアーンの「来世を警戒し」〔39:9〕の来世という言葉は墓中であろうと復活の日であろうと来世的生を含意する*24
②我々は墓中での懲罰に関する真正なハディース(預言者の言行録)に基づき我々の意見を優勢とする*25
 理性的根拠に関するもの
③及び④は両者とも論外である。というのも、我々が人間と言う時に意図しているのは人体ではなく、この肉体に宿る光明的身体(جسم نوراني سار في هذا البدن)を意図しているからである。従って、質問者の述べる疑念はお門違いである*26
 アッラーこそが最も良く知り給う。

 ラーズィーの解釈を整理しますと、以下のようになります。

 まず、●2章28節に関しては、[1]《論点2》において「御前達は死んでいた」との表現を無生物の状態と理解した上で、「死んでいた」という表現が転義であるのか本義であるのかを検討し、転義説が多数説であるとします。この、②転義説というのはタバリーの[1]【1】と同様であり、死をいわば比喩的に理解する説です。因みに①本義説はカターダからの伝承であるタバリーの[1]【3】と同様です。

 [1]《論点3》においては同節が墓中での生を阻却するのではないかとの見解に対し、同節に於いて墓中での生が述べられていないことはその存在を否定するものではなく、さらに同節の「それから」という時間的間隔を意味する単語の使用法に注目した上で、同節が墓中での生を確証すると解釈することも可能であるとしています。

 従って、[1]は以下のように纏められます。

  • 第1の死=土や精子という無生物の状態
    ┗┳①転義説:タバリー【1】有力説
     ┗②本義説:タバリー【3】
  • 第1の生=現世での生
  • 第2の死=現世での死
  • 第2の生=墓中での生(ただし、永遠の生ではない)
  • (第3の死=墓中での死)
  • 第3の生=復活の日の生

 次に、●40章11節に関しては、[2]《論点1》によって同節が墓中での生と死を確証するとします。《答1》において同節における第1の死が現世における死であることを論証し、《答2》において同節の証明力を論証し、《答3》において同節に於いて述べられている2回の生と、同節の解釈の結果生じる3回の生との間の整合性を論証し、《答4》においては墓中での復活を阻却する啓示的及び理性的根拠が存在するとの節に反駁しています。

 従って、[2]は以下のように纏められます

  • 第1の生=現世での生
  • 第1の死=現世での死
  • 第2の生=墓中での生
  • 第2の死=墓中での死
  • 第3の生=復活の日の生

 2章28節と40章11節の解釈における相違は、「死」と「死なすこと」というアラビア語の単語の理解の違いによって生じています。つまり、40章11節の《答1》に記載のとおり、2章28節では第1の死が精子の状態と理解されますが、40章11節では現世の死を第1の死と理解されています。このように両節を分けて理解することによって全体としての整合性を高めているのが、ラーズィーの注釈書の特徴です。また、本義、転義という用語による簡潔な説明が行われており、理論的にすっきりとした構成が取られているように思われます。


*1 理性人、つまり常識を弁えた大人を指す。これと比して、例えば幼児などは義務を負わない。

*2

اعلم أنه سبحانه وتعالى لما تكلم في دلائل التوحيد والنبوة والمعاد إلى هذا الموضع فمن هذا الموضع إلى قوله: { يَـٰبَنِى إِسْرٰءيلَ ٱذْكُرُواْ نِعْمَتِيَ ٱلَّتِى أَنْعَمْتُ عَلَيْكُم } [البقرة: 40] في شرح النعم التي عمت جميع المكلفين وهي أربعة: أولها: نعمة الإحياء وهي المذكورة في هذه الآية.

*3 つまり、この章句においては人間が母胎に於いて霊魂を吹き込まれる以前の状態が、人間とは呼べないような状態の何ものでもなかった存在、取るに足らない存在とされており、このような存在が比喩的に「死」と呼ばれる。

*4

المسألة االثانية: اتفقوا على أن قوله: { وَكُنتُمْ أَمْوٰتًا } المراد به وكنتم تراباً ونطفاً، لأن ابتداء خلق آدم من التراب وخلق سائر المكلفين من أولاده إلا عيسى عليه السلام من النطف، لكنهم اختلفوا في أن إطلاق اسم الميت على الجماد حقيقة أو مجاز والأكثرون على أنه مجاز لأنه شبه الموات بالميت وليس أحدهما من الآخر بسبيل لأن الميت ما يحل به الموت ولا بدّ وأن يكون بصفة من يجوز أن يكون حياً في العادة فيكون اللحمية والرطوبة وقال الأولون هو حقيقة فيه وهو مروي عن قتادة، قال كانوا أمواتاً في أصلاب آبائهم فأحياهم الله تعالى ثم أخرجهم ثم أماتهم الموتة التي لا بدّ منها، ثم أحياهم بعد الموت. فهما حياتان وموتتان واحتجوا بقوله: { خَلَقَ ٱلْمَوْتَ وَٱلْحَيَوٰةَ } [الملك: 2] والموت المقدم على الحياة هو كونه مواتاً فدل على أن إطلاق الميت على الموات ثابت على سبيل الحقيقة والأول هو الأقرب، لأنه يقال في الجماد إنه موات وليس بميت فيشبه أن يكون استعمال أحدهما في الآخر على سبيل التشبيه قال القفال: وهو كقوله تعالى: { هَلْ أَتَىٰ عَلَى ٱلإِنسَـٰنِ حِينٌ مّنَ ٱلدَّهْرِ لَمْ يَكُن شَيْئاً مَّذْكُوراً } [الإنسان: 1] فبين سبحانه وتعالى أن الإنسان كان لا شيء يذكر فجعله الله حياً وجعله سميعاً بصيراً ومجازه من قولهم فلان ميت الذكر. وهذا أمر ميت، وهذه سلعة ميتة، إذا لم يكن لها طالب ولا ذاكر قال المخبل السعدي: وأحييت لي ذكرى وما خاملا ولكن بعض الذكر أنبه من بعض فكذا معنى الآية: { وَكُنتُمْ أَمْوٰتًا } أي خاملين ولا ذكر لكم لأنكم لم تكونوا شيئاً { فَأَحْيَـٰكُمْ } أي فجعلكم خلقاً سميعاً بصيراً.

*5 ザッラ(الذرة)。非常に微細な粒、原子とも訳しうる。1ザッラは約0.0000002グラム(1ミスカール=5グラム=100シャイーラとした場合。1シャイーラ=0.05グラム=248,832ザッラ)。1シャイーラ=6ハルダラ、1ハルダラ=12ファルス、1ファルス=6ファティーラ、1ファティーラ=6ナキーラ、1ナキーラ=8カトミール、1カトミール=12ザッラであるため、1シャイーラ=248,832ザッラとなる。多数説では、1ミスカール=100シャイーラ(1ミスカール=20キーラート、1キーラート=5シャイーラ)。異説では1ミスカール=96シャイーラ(1ミスカール=6ダーニク、1ダーニク=4タスージュ、1タスージュ=2ハッバ、1ハッバ=2シャイーラ)。両説の間には4シャイーラの差異がある。1ミスカールは4.8グラムとも5グラムとも言われる。また、ザッラには重量が無いとも言われる。

الذرة: بالفتح هي نصف سدس القطمير وسيأتي في لفظ المثقال. وقيل الذرة ليس لها وزن كما في بحر الجواهر.

المثقال: بالكسر لغةً ما يوزن به قليلاً كان أو كثيراً. وعرفاً ما يكون موزونه قطعةَ ذهب مقدر بعشرين قيراطاً. وظاهر كلام الجوهري أنه معناه لغةً. والقيراط خمس شعيرات متوسطة غير مقشورة مقطوعة ما امتدت من طرفيها. فالمثقال مائة شعيرة وهذا على رأي المتأخرين وسنجة أهل الحجاز وأكثر البلاد. وأما على رأي المتقدمين وسنجة أهل سمرقند فالمثقال ستة دوانق والدواقن أربع طسوجات والطسوج حبتان والحبة شعيرتان، فالمثقال شعيرة وتسعة عشر قيراطا، فالتفاوت بين القولين أربع شعيرات، كذا في جامع الرموز في كتاب الزكوة. وفي البرجندي أن الدينار وهو المثقال مائة شعيرة عند أهل الشرع وهو المتعارَف في وزن أهل هَراة في هذا الزمان، وإلى هذا الاصطلاح ذهب مَنْ قال إنّ المثقال عشرون قيراطاً والقيراط خمس شعيرات، وكل عشرة دراهم سبعة مثاقيل ويسمى هذا وزن سبعة. فكل درهم نصف مثقال وخمسة، وهو سبعون شعيرة وستة وتسعون شعيرة عند الحساب، وعليه أهل سمرقند. والشعيرة ست خردلات، والخردلة اثنا عشر فلساً، والفلس ست فتيلات، والفتيلة ست فقيرات، والنقيرة ثمانية قطميرات، والقطمير اثنا عشر ذرة انتهى. محمد علي التهانوي، كشاف اصطلاحات الفنون والعلوم، تحقيق علي دحروج، بيروت، 1996

المثقال أو الدينار: 20 قيراطاً، والمثقال العجمي: 4،80 غم، والمثقال العراقي: 5 غم. وهبة الزحيلي، الفقه الإسلامي وأدلته، ج1، ص 76.

*6

المسألة الثالثة: احتج قوم بهذه الآية على بطلان عذاب القبر، قالوا لأنه تعالى بين أنه يحييهم مرة في الدنيا وأخرى في الآخرة ولم يذكر حياة القبر ويؤكده قوله: { ثُمَّ إِنَّكُمْ بَعْدَ ذٰلِكَ لَمَيّتُونَ ثُمَّ إِنَّكُمْ يَوْمَ ٱلْقِيَـٰمَةِ تُبْعَثُونَ } [المؤمنون: 15، 16] ولم يذكر حياة فيما بين هاتين الحالتين، قالوا ولا يجوز الاستدلال بقوله تعالى: { قَالُواْ رَبَّنَا أَمَتَّنَا ٱثْنَتَيْنِ وَأَحْيَيْتَنَا ٱثْنَتَيْنِ } [غافر: 11] لأنه قول الكفار، ولأن كثيراً من الناس أثبتوا حياة الذر في صلب آدم عليه السلام حين استخرجهم وقال: { أَلَسْتُ بِرَبّكُمْ } [الأعراف: 172] وعلى هذا التقدير حصل حياتان وموتتان من غير حاجة إلى إثبات حياة في القبر،

*7

فالجواب لم يلزم من عدم الذكر في هذه الآية أن لا تكون حاصلة، وأيضاً فلقائل أن يقول: إن الله تعالى ذكر حياة القبر في هذه الآية. لأن قوله في يحييكم ليس هو الحياة الدائمة وإلا لما صح أن يقول: { ثُمَّ إِلَيْهِ تُرْجَعُونَ } لأن كلمة ثم تقتضي التراخي، والرجوع إلى الله تعالى حاصل عقب الحياة الدائمة من غير تراخ فلو جعلنا الآية من هذا الوجه دليلاً على حياة القبر كان قريباً.

*8

المسألة الأولى: احتج أكثر العلماء بهذه الآية في إثبات عذاب القبر، وتقرير الدليل أنهم أثبتوا لأنفسهم موتتين حيث قالوا { رَبَّنَا أَمَتَّنَا ٱثْنَتَيْنِ } فأحد الموتتين مشاهد في الدنيا فلا بد من إثبات حياة أخرى في القبر حتى يصير الموت الذي يحصل عقيبها موتاً ثانياً، وذلك يدل على حصول حياة في القبر.

*9

فإن قيل قال كثير من المفسرين الموتة الأولى إشارة إلى الحالة الحاصلة عند كون الإنسان نطفة وعلقة والموتة الثانية إشارة إلى ما حصل في الدنيا، فلم لا يجوز أن يكون الأمر كذلك، والذي يدل على أن الأمر ما ذكرناه قوله تعالى: { كَيْفَ تَكْفُرُونَ بِٱللَّهِ وَكُنتُمْ أَمْوٰتًا فَأَحْيَـٰكُمْ ثُمَّ يُمِيتُكُمْ } [البقرة: 28] والمراد من قوله { وَكُنتُمْ أَمْوٰتًا } الحالة الحاصلة عند كونه نطفة وعلقة وتحقيق الكلام أن الإماتة تستعمل بمعنيين أحدهما: إيجاد الشيء ميتاً والثاني: تصيير الشيء ميتاً بعد أن كان حياً كقولك وسع الخياط ثوبي، يحتمل أنه خاطه واسعاً ويحتمل أنه صيره واسعاً بعد أن كان ضيقاً، فلم لا يجوز في هذه الآية أن يكون المراد بالإماتة خلقها ميتة، ولا يكون المراد تصييرها ميتة بعد أن كانت حية.

*10

السؤال الثاني: أن هذا كلام الكفار فلا يكون حجة.

*11

السؤال الثالث: أن هذه الآية تدل على المنع من حصول الحياة في القبر، وبيانه أنه لو كان الأمر كذلك لكان قد حصلت الحياة ثلاث مرات أولها: في الدنيا، وثانيها: في القبر، وثالثها: في القيامة، والمذكور في الآية ليس إلا حياتين فقط، فتكون إحداهما الحياة في الدنيا والحياة الثانية في القيامة والموت الحاصل بينهما هو الموت المشاهد في الدنيا.

*12

السؤال الرابع: أنه إن دلت هذه الآية على حصول الحياة في القبر فههنا ما يدل على عدمه وذلك بالمنقول والمعقول، أما المنقول فمن وجوه الأول: قوله تعالى: { أَمَّنْ هُوَ قَانِتٌ ءانَاء ٱلَّيْلِ سَـٰجِداً وَقَائِماً يَحْذَرُ ٱلأَخِرَةَ وَيَرْجُو رَّحْمَةِ رَبّهِ } [الزمر: 9] فلم يذكر في هذه الآية إلا الحذر عن الآخرة، ولو حصلت الحياة في القبر لكان الحذر عنها حاصلاً، ولو كان الأمر كذلك لذكره، ولما لم يذكره علمنا أنه غير حاصل

*13

الثاني: أنه تعالى حكى في سورة الصافات عن المؤمنين المحقين أنهم يقولون بعد دخولهم في الجنة { أَفَمَا نَحْنُ بِمَيّتِينَ إِلاَّ مَوْتَتَنَا ٱلأولَىٰ } [الصافات: 58، 59] ولا شك أن كلام أهل الجنة حق وصدق ولو حصلت لهم حياة في القبر لكانوا قد ماتوا موتتين، وذلك على خلاف قوله { أَفَمَا نَحْنُ بِمَيّتِينَ * إِلاَّ مَوْتَتَنَا ٱلأولَىٰ } قالوا والاستدلال بهذه الآية أقوى من الاستدلال بالآية التي ذكرتموها، لأنه الآية التي تمسكنا بها حكاية قول المؤمنين الذين دخلوا الجنة والآية التي تمسكتم بها حكاية قول الكافرين الذين دخلوا النار.

*14

وأما المعقول فمن وجوه الأول: وهو أن الذي افترسته السباع وأكلته لو أعيد حياً لكان إما أن يعاد حياً بمجموعة أو بأحاد أجزائه، والأول باطل لأن الحس يدل على أنه لم يحصل له مجموع، والثاني باطل لأنه لما أكلته السباع، فلو جعلت تلك الأجزاء أحياء لحصلت أحياء في معدة السباع وفي أمعائها، وذلك في غاية الاستبعاد.

*15 つまり、目の前にあるものを疑わせようとする行為であるということ。

*16

الثاني: أن الذي مات لو تركناه ظاهراً بحيث يراه كل واحد فإنهم يرونه باقياً على موته، فلو جوزنا مع هذه الحالة أنه يقال إنه صار حياً لكان هذا تشكيكاً في المحسوسات، وإنه دخول في السفسطة

*17

(والجواب) قوله لم لا يجوز أن تكون الموتة الأولى هي الموتة التي كانت حاصلة حال ما كان نطفة وعلقة؟ فنقول هذا لا يجوز، وبيانه أن المذكور في الآية أن الله أماتهم ولفظ الإماتة مشروط بسبق حصول الحياة إذ لو كان الموت حاصلاً قبل هذه الحالة امتنع كون هذا إماتة، وإلا لزم تحصيل الحاصل وهو محال وهذا بخلاف قوله { كَيْفَ تَكْفُرُونَ بِٱللَّهِ وَكُنتُمْ أَمْوٰتًا } لأن المذكور في هذه الآية أنهم كانوا أمواتاً وليس فيها أن الله أماتهم بخلاف الآية التي نحن في تفسيرها، لأنها تدل على أن الله تعالى أماتهم مرتين، وقد بينا أن لفظ الإماتة لا يصدق إلا عند سبق الحياة فظهر الفرق.

*18

أما قوله إن هذا كلام الكفار فلا يكون حجة، قلنا لما ذكروا ذلك لم يكذبهم الله تعالى إذ لو كانوا كاذبين لأظهر الله تكذيبهم، ألا ترى أنهم لما كذبوا في قولهم { وَٱللَّهِ رَبّنَا مَا كُنا مُشْرِكِينَ } كذبهم الله في ذلك فقال: { ٱنظُرْ كَيْفَ كَذَبُواْ } [الأنعام: 23، 24].

*19

وأما قوله ظاهر الآية يمنع من إثبات حياة في القبرة إذ لو حصلت هذه الحياة لكان عدد الحياة ثلاث مرات لا مرتين، فنقول (الجواب) عنه من وجوه: الأول: هو أن مقصودهم تعديل أوقات البلاء والمحنة وهي أربعة الموتة الأولى، والحياة في القبر، والموتة الثانية، والحياة في القيامة، فهذه الأربعة أوقات البلاء والمحنة، فأما الحياة في الدنيا فليست من أقسام أوقات البلاء والمحنة فلهذا السبب لم يذكروها

*20

الثاني: لعلهم ذكروا الحياتين: وهي الحياة في الدنيا، والحياة في القيامة، أما الحياة في القبر فأهملوا ذكرها لقلة وجودها وقصر مدتها

*21 この説明は生の回数を2回とすることには成功しているものの、墓中での死を否定してしまう(現世での生 → 現世での死 → 墓中での生 → 墓中での生が復活の日まで続く)。だがラーズィーは《論点1》において40章11節が墓中の死を証するものであり、墓中の死があるならば墓中の生が必然となるとの議論を展開しており、説明はラーズィーの本来の立場と矛盾する。このことは、次の《答3》④の回答にも明らかである。同時にラーズィーにとって重要なのは墓中の生を立証することであって、墓中での死の存在は二義的なものであるとも理解されよう。

*22

الثالث: لعلهم لما صاروا أحياء في القبور لم يموتوا بل بقوا أحياء، إما في السعادة، وإما في الشقاوة، واتصل بها حياة القيامة فكانوا من جملة من أرادهم الله بالاستثناء في قوله { فَصَعِقَ مَن فِى ٱلسَّمَـٰوَاتِ وَمَن فِى ٱلأَرْضِ إِلاَّ مَن شَاء ٱللَّهُ } [الزمر: 68]

*23

الرابع: لو لم تثبت الحياة في القبر لزم أن لا يحصل الموت إلا مرة واحدة فكان إثبات الموت مرتين كذباً وهو على خلاف لفظ القرآن، أما لو أثبتنا الحياة في القبر لزمنا إثبات الحياة ثلاث مرات والمذكور في القرآن مرتين، أما المرة الثالثة فليس في اللفظ ما يدل على ثبوتها أو عدمها، فثبت أن نفي حياة القبر يقتضي ترك ما دل اللفظ عليه، فأما إثبات حياة القبر فإنه يقتضي إثبات شيء زائد على ما دل عليه اللفظ مع أن اللفظ لا إشعار فيه بثبوته ولا بعدمه فكان هذا أولى

*24

وأما ما ذكروه في المعارضة الأولى فنقول { يَحْذَرُ ٱلآخِرَةَ } [الزمر: 9] تدخل فيه الحياة الآخرة سواء كانت في القبر أو في القيامة،

*25

وأما المعارضة الثانية فجوابها أنا نرجح قولنا بالأحاديث الصحيحة الواردة في عذاب القبر.

*26

وأما الوجهان العقليان فمدفوعان، لأنا إذا قلنا إن الإنسان ليس عبارة عن هذا الهيكل بل هو عبارة عن جسم نوراني سار في هذا البدن كانت الإشكالات التي ذكرتموها غير واردة في هذا الباب، والله أعلم.