ハディースは以下のように定義されるのが一般的です。
預言者ムハンマドに帰属する①発言、②行為、③承認、④形容*1。
この定義は、イスラーム法学基礎論の定義する預言者のスンナ(السنة、慣行)の定義とほぼ同じです。専門分野毎の定義の相違については後に紹介したいと思います。
上記の①~④について説明しますと、まず①については預言者が語り、それを聞き覚えた教友達が後世に伝えたものとされます。これを一般的に「発言のスンナ」(السنة القولية)と呼び、最も頻繁に見られます*2。
②の「行為のスンナ」(السنة الفعلية)とは預言者の存命中の公私にわたる行為や振る舞いが教友達によって伝えられたものです。公衆の面前での行為が様々な教友によって伝えられたのはいわば当然ですが、私生活に関する「行為のスンナ」については、妻達や近親者等によって伝えられました。イスラーム法の礼拝(サラート)、大巡礼(ハッジ)、ジハード(聖戦)、裁判等に関する規定の法源に、「行為のスンナ」が多く見られます*3。
例えば、預言者が「私が礼拝するように礼拝しなさい」との「発言のスンナ」があるため、預言者の行った礼拝の仕方が「行為のスンナ」として現在まで伝えられています。
一例を挙げますと、
アブドゥッラー・ブン・ウマルによると、神の使徒は犠牲祭と断食明けの大祭(イード)の日には(大祭の)礼拝を行い、礼拝の後で説教を行った*2。
③の「承認のスンナ」(السنة التقريرية)とは教友がある行為を行い、預言者ムハンマドがその行為を認めたものを指します。承認の形式としては、沈黙や否定の不在といった消極的な承認と、了承や賞賛といった積極的な承認があります。消極的な承認の背景には、預言者は間違いや不正が行われた場合に沈黙することはない、との理解があります*5。
以下に、承認のスンナの一例を挙げます。
イブン・ウマルの伝えるところによると、部族連合との戦い*6から戻った後、預言者は私たちに「(あなたたちの)誰であれ、クライザ族(の地)以外でアスルの礼拝を行ってはいけない」と言われた。その途上にてアスルの礼拝の時刻になった時、一部は「クライザ族(の地)に着くまでは礼拝しない」と主張、一部は「否(規定の時刻になったので)、礼拝する、(預言者は)私たちにそのようなこと(定刻より遅らせてまでクライザ族の地で礼拝すること)を求められたのではない」と主張した*7。このことが預言者に伝えられたが、預言者はどちらを非難することも無かった*8。
なお、このハディースはイジュティハード(学的努力)による見解の相違を裏書きするものとして大変有名です*9。
④の「形容のスンナ」(السنة الوصفية)とは預言者ムハンマドの外見や性格に関わるものです。イスラーム法の法源とはなりませんが、預言者に倣いたいという人々にとっては重要なハディースとなります。
例を挙げますと、外見に関するものとして「預言者の笑いは、微笑であった」、性格に関するものとして「あなたの中の良い人々とは、自らの家族(妻)にとって良い人々のことである。そして、私はあなた方の中で最も自分の家族(妻)にとって良い人である」等があります*10。
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*6 ↑ 塹壕の戦いとも呼ばれる。
*7 ↑ 預言者の意図は早くクライザ族の地へ赴きなさいというものであった、という解釈。
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日本語では牧野訳『ハディース』1巻343-344頁、4巻155頁に収録されている。
*9 ↑
ثم الاستدلال بهذه القصة على أن كل مجتهد مصيب على الإطلاق ليس بواضح. وإنما فيه ترك تعنيف من بذل وسعه واجتهد، فيستفاد منه عدم تأثيمه.
وحاصل ما وقع في القصة أن بعض الصحابة حملوا النهي على حقيقته، ولم يبالوا بخروج الوقت ترجيحا للنهي الثاني على النهي الأول وهو ترك تأخير الصلاة عن وقتها، واستدلوا بجواز التأخير لمن اشتغل بأمر الحرب بنظير ما وقع في تلك الأيام بالخندق فقد تقدم حديث جابر المصرح بأنهم صلوا العصر بعدما غربت الشمس وذلك لشغلهم بأمر الحرب، فجوزوا أن يكون ذلك عاما في كل شغل يتعلق بأمر الحرب ولا سيما والزمان زمان التشريع، والبعض الآخر حملوا النهي على غير الحقيقة وأنه كناية عن الحث والاستعجال والإسراع إلى بني قريظة. وقد استدل به الجمهور على عدم تأثيم من اجتهد لأنه صلى الله عليه وسلم لم يعنف أحدا من الطائفتين، فلو كان هناك إثم لعنف من أثم، واستدل به ابن حبان على أن تارك الصلاة حتى يخرج وقتها لا يكفر، وفيه نظر لا يخفى. فتح الباري، الرياض، 2005، ج9، ص209-210.
*10 ↑