理性でわかることと、わからないこと

かつてのイスラームの学者(アーリム)が記した本の、「理性によって知られることと、啓示(الشرع)によってのみ知られること」*1という節には次のようにあります。

 我々の仲間は次のように言う。

 理性は、世界の生起、世界の創造者の唯一性・無始性・永遠の諸属性、さらに世界の創造者による諸使徒の僕(しもべ)への派遣が可能であること、創造者が自らの望みのままにその僕(しもべ)に義務を課すことが可能であることを示している。

 また、理性は、全ての生起可能なことが生起することの可能性、全ての存在することが不可能なことの不可能性を示す。*2

 つまり、世界には始まりと終わりがあり、その世界を作った存在が唯一であることは理性によって知られうるということです。「存在することが不可能なことの不可能性」というのはわかりにくい言葉ですが、例をあげて説明してみます。

 仮に、目の前にあなたの手になじんだ愛着のこもったかけがえのない万年筆があるとします。このあなたの目の前に存在するたった一つの万年筆そのものが、同時に他の場所にも存在するということは不可能である、というようなことです。

 もしくは、ある人物がある場所にいるとして、同時に他の場所にいることは不可能である、といったことです。もし、ある人物がある場所にいて、同時に他の場所にいることが可能であれば、警察のアリバイ捜査は無意味になるでしょうし、全ての社会常識は崩壊してしまいます。

 つまり、理性によって知られるのは日本語で言うところの「当たり前」、「当然」に当てはまるような事柄であるということです。

(K.S.)


*1

عبد القاهر البغدادي، أصول الإيمان، بيروت، 1989، ص 27. و هو كتاب مشهور بإسم {أصول الدين}.

المسألة الثانية عشرة من هذا الأصل (في بيان الحقائق و العلوم على الخصوص و العموم)

في بيان ما يعلم بالعقل و ما لا يعلم إلا بالشرع

* 2

قال أصحابنا: إن العقول تدل على حدوث العالم و توحيد صانعه و قدمه و صفاته الأزلية و على جواز إرساله الرسل إلى عباده و على جواز تكليف عباده ما شاء، و فيها دلالة على صحة جواز حدوث كل ما يصح حدوثه و على استحالة كل ما يستحيل كونه.