「望むとおりに行いなさい」とは?

 先ほどのバドルの民に関するハディースにはさらに次のような解釈がついています。

 預言者の御言葉である

アッラーはバドルの民をご覧になり、「望むとおりに行いなさい。私はすでにお前たちを許したのだから」と言われたであろう。

には、来世における(バドルの民の)罪の許しが現世での法定刑(ハッド刑)の免除をもたらすとの根拠はない。というのも、預言者はマーイズ(注:人名)とアル=ガーミディーヤ(注:人名)を法定刑に処したが、預言者は両名の悔悟について伝えており、悔悟は(来世での)罰を免除するものである(にも関わらず、法定刑は執行された)。

 ウンマ(イスラーム共同体)は全ての罪を犯したものには法定刑が実施されることにおいて合意しており、ウマル(第2代正統カリフ)は彼らの一部に法定刑を執行した。

 さらに預言者はミスティフに法定刑を行ったが、彼はバドルの民であった*1

とあります。

 つまり、来世での罪が許されたからと言って現世での懲罰が免除されるわけではない、として来世的秩序と現世的秩序の区別がはかられています。

 バドルの民に対する「望むとおりに行いなさい」との言葉は、現世で勝手気ままに振る舞うことを許すような内容ではなく、犯罪を犯せば懲罰を受ける訳です。

 また、サハーバ(教友)達の一部が犯罪を犯し罰せられたとの記述は、考えようによっては例えばイスラーム(イスラム教)を極端に美化する人々にとって都合の悪い事実かも知れませんが、イスラームの学者達は事実を誠実に伝えることに注力し、事実として発生したことをそのまま伝えています。

 このようにして事実が伝えられたことによって、来世における罪の許しが現世における懲罰の免除を意味しない、という重要な原則が守られてきたとも言えるでしょうか。

 また、サハーバであっても罪を犯し罰せられたという事実は、最良のムスリム(イスラム教徒)によって作られた社会でも犯罪は起こりうるとの現実的な認識をもたらすもので、人間の人格的改善が達成されることによって政治(統治)や法といった現実的秩序が不要になると言うことはあり得ないということをも含意しています。

 このように、イスラームは至って現実的な宗教です。従って、その背景にある現実性を考慮に入れながらイスラームのメッセージを読まないと、誤解が生じかねない虞(おそれ)もあると思います。

(K.S.)


*1

شرح مسلم للقاضي عياض، المنصورة، 1998، ج17، ص539

قال القاضي: و قوله: ((و ما يدريك، لعل االله اطلع على أهل بدر، فقال: اعملوا ما شئتم فقد غفرت لكم)): لا دليل فيه أن غفران الذنب في الآخرة لا يسقطه حده في الدنيا، بدليل حد النبي – ع – ماعزاً و الغامدية، و قد أخبر بتوبتهما، و التوبة مسقطة للعقاب، و بإجماع الأمة على إقامة الحدود على كل مذنب، فأقام عمر الحد على بعضهم، و ضرب النبي – ع – مسطحا الحد و كان بدريا.