先に述べましたように、イスラームが完成された宗教であるという教義は、その宗教を保ち実践し後の時代に繋げてゆくことが非常に大きな課題となります。まず、預言者亡き後に、誰がどうやってイスラームとその共同体を指導するのかをめぐって意見分裂が発生しました。
アシュアリー派の
(ムスリムの)人々は彼らの預言者の(逝去)後、多くの事柄において意見分裂し、お互いに迷わし、またお互いに(関係を)解消したので、彼らは異なった諸集団や散り散りの諸党となったものの、しかしながらイスラームが彼らを集め包含していた*11。
預言者(逝去)後にムスリムの間で一番最初に生じた意見分裂は、イマーム位(カリフ位)に関する意見分裂であった。それは、アッラーの使徒をアッラーが召し上げ楽園へと移し給うた際、援助者たち がマディーナのサーイダ族の東屋(集会場)に集い、サアド・ブン・ウバーダとイマーム位を締約しようとした。そのことが、アブー・バクルとウマルに伝わり、両者は移住者たち の一部を含んだ援助者たち の集会に向かい、アブー・バクルは彼らに対しイマーム位がクライシュ族のみに存在することを知らせ、彼らに「イマーム位はクライシュ族にあり」との預言者の言葉を根拠として掲げた。すると、彼らはそれに従順に従い、真理へと立ち返った。これは、援助者たち が「私たちからも指揮官 を、あなた方からも指揮官を(立てましょう)」と言い、アル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルが自らの剣を抜き「私はその(援助者たち の立場の)擦り掻き丸太*12であり、支柱で支えられた(果実の多い)ナツメヤシの木である*13、私に決闘を挑むものは誰か」と言い、カイス・ブン・サアドが父であるサアド・ブン・ウバーダを支援した後の出来事であって、ついにはウマル・ブン・アル=ハッターブがかの(臣従の誓いの)言葉を述べ、それから彼らはアブー・バクルに臣従を誓ったのであった。そして彼らは、彼(アブー・バクル)のイマーム位(カリフ位)に同意し、彼のイマーム位に合意し、彼へ臣従し従ったのである*14。
この様に、誰が共同体の指導者となるかを巡っては、預言者逝去後に直ぐに問題となりました。
シーア派とスンナ派の立場の相違は、共同体が如何にして誤謬から護られるかに関しての見解の相違でもあります。
シーア派は、預言者ムハンマドの血族、具体的には預言者ムハンマドの娘ファーティマと彼の甥アリーとの間に生まれたハサンとフセイン並びにその子孫が神によって誤謬から護られている(無謬である)、とします*15。無謬の
これに対し、スンナ派は、
以上、イスラームの特質について、大ざっぱに見てきました。
次章では、本論であるイスラーム思想について述べたいと思います。
*11 ↑: 彼らには相違はあったが、イスラームの枠内に留まった、の意。
*12 ↑: ラクダが自分の体を掻くためにこすりつける丸太。
*13 ↑: 正論を有する頼りになる人物である、の意。
*14 ↑
*15 ↑: 例えば、モハンマド=ホセイン・タバータバーイー著、森本一夫訳、『シーア派の自画像 ―歴史・思想・教義』慶應義塾大学出版会、2007年、181-82頁参照。
*16 ↑: 小杉泰「スンナ派」『岩波イスラーム辞典』
*17 ↑: 小杉泰 1994, p.227