世界的なイスラーム研究者である井筒俊彦はクルアーンの読み方について、次のような立場をとっていました。
「コーラン」にかぎらず、すべて時間空間的に距たりのある古典を読む場合、少くとも第一次的操作としては、現象記述的な態度で読まなければならない、と私は思っております。現象記述的などと申しますと、なんだか面倒なことのように聞えるかも知れませんが、わかりやすくいえば、すべて「コーラン」に書かれていることを、そのまま現象的所与として受けとっていくということです。(中略)ヨーロッパやアメリカのイスラーム学者も、近頃はだいたいそういう読み方をする傾向になってきました。簡単に申しますと、「コーラン」に、なになになにと書いてあれば、それがそう書かれていることは事実なのであって、そのまま受けとめるしかないと、こういうわけです*1。」。
これは、もちろん、井筒俊彦が「コーラン」(クルアーン)を信じたということではありません。
そうではなくて、記述されている内容が真か偽かにこだわる読み方をしている限り、読む事によって得られる成果には限界があるということを同氏は熟知していたので、その落とし穴に落ちてしまうことを避けるための手段として「そのまま受けとめる」という立場をとったのだろうと思われます。それは、同氏の次のような言葉からも明らかです。
たとえば、「ムハンマド(昔流にいえばマホメット)は神の使徒なり」という「コーラン」の命題がある。(中略)十九世紀後半までの西洋の人はこの命題をどう読んだか。(中略)非常に特徴的なことは、彼らがこの命題を読むに際して、まず問題にしたのは、それが真か偽か、ということだった、ということです。(中略)勿論、答えは、嘘だ、ということになる。一事が万事、この調子で「コーラン」を読んでいたのです。何世紀にもわたってヨーロッパでイスラームについて書かれてきた本を読んでみると、本当に驚きます。この命題は偽である、などと、そんなおだやかな言い方じゃない。もっと下品な、悪意むきだしの言葉が使われます*2。
井筒俊彦が世界的な学者であったことの背景に、同氏のこのような学問的態度があったことは注目に値するのではないでしょうか。
(K. S.)
*1 ↑ 井筒 俊彦 『コーランを読む』井筒俊彦著作集8、中央公論社、1995年、47-48頁
*2 ↑ 井筒 俊彦 『コーランを読む』井筒俊彦著作集8、中央公論社、1995年、48-49頁