慈悲深い神というのは日本人にとっては馴染み深い存在でしょう。怒れる神、罰する神というのは近寄りがたい印象がありますが、慈悲深い神であれば親近感があります。さて、アラビア語ではアッ=ラフマーンとアッ=ラヒームとよばれていますが、慈悲あまねき存在と慈悲深い存在とはどのようにイスラームでは理解されているのでしょうか。
ごく簡潔なクルアーン(コーラン)の用語解説書を見ると、
アッ=ラフマーン:慈悲が広いこと。至高なるアッラー以外に属することはない*1
とあり、これが慈悲あまねきと訳されていることがわかります。
そして、アッ=ラヒームについては
慈悲が途切れなく常であり、壮大であること*2
と説明されており、その訳語が慈悲深きとされています。
しかし、これだけではどのように違うのか、よくわかりません。
現代のアーリム(イスラーム学者)は以下のように説明しています。
アッ=ラフマーンとアッ=ラヒームは(共に)慈悲という言葉の強調形の派生語であり、アッ=ラフマーンはアッ=ラヒームよりも更に強い強調形である。両方の高貴な名前はアッラーの美しい神名の一部であり、アッラーの荘厳さにふさわしい慈悲のアッラーに関する形容を指し示している。そして、アッ=ラフマーンは全ての被造物に対する全般的な慈悲の所有者を意味し、アッ=ラヒームは信仰者に関する特別な慈悲の所有者を意味する。至高のアッラーは「彼は信仰者たちにはラヒームであった」と仰っている様に。*3
つまり、アッ=ラフマーンは森羅万象に対する慈悲者、アッ=ラヒームは信仰者に関わる慈悲者、という理解です。この理解の延長線上には、この世界の全存在、例えば自然界に存在する動植物や全人類はアッラーの慈悲に包まれており、さらに信仰者はアッラーの格別な慈悲をかけてもらえる、という世界観が浮かび上がってきます。
因みに、「彼は信仰者たちにはラヒームであった」のラヒームが、アッ=ラヒームでないのは、アラビア語では名詞と形容詞との境界線がそれほど強固ではなく、定冠詞の「アッ=」もしくは「アル=」をつけると名詞となり、つけない場合には形容詞となったりすることがあるためで、書き間違いではありません。
(K.S.)
*1 ↑
تفسير و بيان مفردات القرآن على مصحف القراءات و التجويد مع أسباب النزول للسيوطي، إعداد : محمد حسن الحمصي، بيروت، ص 1
*2 ↑
*3 ↑
قوله: (الرحمن) : مشتق من الرحمة و هو على وزن فعلان، و معناه: ذو الرحمة الواسعة، و هو اسم من أسماء الله تعالى، فلا يطلق على غيره.
قوله: (الرحيم) : على وزن فعيل، وهو دال على الفعل، و معناه: ذو الرحمة الواصلة، و يطلق على الله عز و جل و على غيره منكراً.
فقوله: (الرحمن الرحيم) اسمان مشتقان من الرحمة على وجه المبالغة، و الرحمن أشد مبالغة من الرحيم.
و هما اسمان كريمان من أسمائه الحسنى دالان على اتصافه تعالى بالرحمة على ما يليق بجلاله.
و الرحمن ذو الرحمة العامة لجميع المخلوقات، و الرحيم ذو الرحمة الخاصة بالمؤمنين، كما قال تعالى: (و كان بالمؤمنين رحيما) [الأحزاب: 43].