アラビア文字圏

 アラビア文字は「東南アジアのジャワ語やインド東部のベンガル語など」*1をのぞき、イスラーム圏の文字として使われてきました。また、アラビア文字圏内のエリート達は正則アラビア語を理解することも多かったと言えます。ヨーロッパでのラテン語や、東アジア圏での漢文に匹敵する言語でした。

 例えば、1890年発行のトルコ語(オスマン語)・英語辞書*2の見出しはアラビア文字で書かれており、アラビア文字とその配列を知らなければ使えないものとなっています。また、同辞書には各単語が何語に由来しているかも記されているのですが、そこにはアラビア語に加えてペルシア語由来のものも数多く記されています。トルコ語では礼拝のことをナマズ(若しくはネマーズとも)といいますが、これはペルシア語のナマーズに由来します。トルコ人の中には、ナマズがアラビア語だと思い込んでいる人も多いのですが、これはトルコ語内の宗教用語の多くがアラビア語由来だからだと思われます。また、ウルドゥー語でもおおよそ事情は似ているようで、アラビア語とペルシア語由来の宗教用語が豊富にあるようです。

 アラビア語もペルシア語もアラビア文字で記されるため、両言語を知らなければアラビア文字で書かれたものであれば何となくアラビア語のように見えてしまいます。しかし、アラビア語とペルシア語は全く構造の違う言語で、ペルシア語はインド・ヨーロッパ語族ですから英語やフランス語に近く、アラビア語はセム語族ですからヘブライ語に近い存在です。言語構造的には全く異なったアラビア語とペルシア語が、アラビア文字で記されていることは不思議かもしれませんが、日本語と中国語が全く異なる言語であるにもかかわらず漢字を共に用いるのと同様の現象が発生したのです。

 なお、西洋の衝撃によってアラビア文字圏も変化を遂げました。例えば、1928年11月、「西ヨーロッパ型『近代』国家の建設へと邁進した*3」ムスタファ・ケマル(アタチュルク*4)がトルコ語の筆記にラテン文字を導入*5しましたが、これは非常に象徴的な事件であったと言えます。これによって、現代トルコ人の多くはアラビア文字を読めない存在となりました。その結果、アラビア語の読める日本人がトルコに旅行に行った際、モスクの中に書いてある文字を読んだところ周囲のトルコ人に驚かれる、といったことが起こりえます。また、中央アジアも「近現代の中央アジア研究には、ロシア語に加えて、中央アジア諸言語の習得が必須」*6と言われるようにソ連の圧倒的な影響力の元に置かれました。ロシア語のほうがアラビア語よりもずっと重要になったわけです。

 さて、トルコのモスクでアラビア文字を読んだ後では、きっと周囲のトルコ人はこれまで以上に友好的になってくれます。アラビア語に親近感や敬意を持っているという意味では、未だにトルコは心理的にはアラビア文字文化圏なのかもしれません。

(K.S.)


*1 鈴木 董『オスマン帝国の解体』ちくま新書、2000年、73頁。両地域では梵字系の文字が使われていたそうです。

*2 James W. Redhouse, A Turkish and English Lexicon, Constantinople, 1890; rep. Beirut, 1996

*3 永田 雄三、加藤 博『西アジア-地域からの世界史8』朝日新聞社、1993年、171頁。

*4 1934年、トルコ議会は「父なる人」を意味する「アタチュルク」の姓をケマルに与えた。永田 雄三、加藤 博『西アジア-地域からの世界史8』朝日新聞社、1993年、159頁参照。

*5 ロベール・マントラン、小山 皓一郎訳、『改訳 トルコ史』、白水社、1982年、132頁

*6 小松 久夫「中央アジア」小杉 泰、林 佳世子、東長 靖編『イスラーム世界研究マニュアル』名古屋大学出版会、2008年、263頁