ファトワーとは、一般信徒からの質問に対する有資格者による回答で、法学裁定*1、法判断をめぐる意見書*2、法学意見、法学鑑定*3、法判断*4、法勧告*5などと訳されますが、その内容は必ずしも法学に限定されることはなく、神学、道徳などの領域をも含みうるため、教義回答*6とも訳されます。
ファトワーと裁判における判決との違いはおおよそ次のように纏められます。
- ファトワーは法的拘束力を持ちません*7。これは、裁判における判決が為政者による強制的な執行力を伴うのに比べ、決定的な違いです。
- また、神学、道徳などの領域を扱いうるファトワー(教義回答)に対し、判決はこういった領域には関与しません。
- 判決は外面(表象 ẓāhir)に従って下されます。これに対し、ファトワーは外面と内実(実相 ḥaqīqah)に従って下され、外面と内実との間に相違がある場合には、内実が外面に勝ります。
例えば、債権者が債務者に知らせることなくその債務を免除し、その後に債権者が債務の返済を求めて債務者を訴えました。債務者は、債権者が債務を免除したことを知りません。
この場合、判決は債権者に債権の回収を許可します。
これに対し、ファトワーは、内実において債務の免除があることから、債権の回収を禁じます*8。
以上により、強制力を伴った問題解決の手段である判決と、イスラームの理念の表現として理想や教義により深く結びついたファトワーとの違いが明らかになったかと思います。また、ファトワーが私的な性質を有すると言われますが、その意味は、以上のような判決との対比によってより具体的に理解されるかと思います。
(K.S.)
*1 ↑: 小杉泰「ファトワー」『岩波イスラーム辞典』
*2 ↑:「イスラム法の解釈・適用に当って新たに困難が生じた際、それについて法判断を述べる資格を認められた権威ある法学者を『ムフティー』(muftī)といい、文書で出されるその意見書を「ファトワー」(fatwā)という。」アブドル=ワッハーブ・ハッラーフ著、中村廣治郎訳『イスラムの法 ―法源と理論』東京大学出版会、1984年、307頁。
*3 ↑: 堀井聡江「ファトワー」『新イスラム事典』平凡社
*4 ↑: 村田幸子「解説」イブン・ザイヌッディーン著、村田幸子訳『イスラーム法理論序説』岩波書店、1985年、485頁、中田考「ジハード(聖戦)論再考」『オリエント』、第35巻 第1号、1992年、p.18.
*5 ↑: 中田考「イスラーム法概説」イブン・タイミーヤ著、湯川武・中田考訳『イスラーム政治論』日本サウディアラビア協会、1991年、p.163.
*6 ↑: 中田考『イスラーム法の存立構造』ナカニシヤ出版、2003年、p.25.
*7 ↑
*8 ↑
قد يقوم بإبراء مدينه دون أن يعلمه بذلك، ثم يرفع الدعوى على المدين طالباً بسداد الدين، والمدين لا يعلم بالإبراء، فالقضاء يقضي
له بقبض الدين. والفتوى تمنعه من ذلك، نظراً لوجود الإبراء. ابراهيم محمد سلقيني، الفقه الإسلامي، دمشق، 1999، ج1، ص7-8.