ファトワーを発する有資格者をムフティーと言います。ムジュタヒド(イジュティハードを行う者)の位階と同様に*1、ムフティーにも位階があり、例えばイブン・カイイム(没751/1350)はムフティーの位階を次の4つに分けています*2。
第1種の人々。クルアーンと預言者ムハンマドのスンナ、教友達の見解について熟知しており、新奇な事態に関する規定(aḥkām al―nawāzil)におけるムジュタヒドであり、そこにおいては存在するシャリーアの諸典拠との合致を目指し、そのイジュティハードは時として他者へのタクリード(追随・模倣)を排除しない者。学祖達で、一部の規定に関して自分よりも学識のある者にタクリードしなかった者はおらず、シャーフィイーはハッジに関わる一部の規定に関し、「私はアターにタクリードしてそれを(自らの見解として)述べたのである」と述べている。
この種の者こそは、ファトワーを発することが許される者であり、彼らにファトワーを求めることが許され、彼らによってイジュティハードの義務が遂行されるのである。彼らは、預言者ムハンマドのハディースに伝えられる「各世紀初頭の改革者(ムジャッディド)」であり、アッラーがその宗教において植え続けられる「アッラーの苗」であり、アリーが「大地からアッラーのためにその明証を支える者が絶えることはない」と呼んだ者達である*3。第2種の人々。自らの師事する学祖の学派における限定ムジュタヒド。学祖のファトワー、見解、典拠、法基礎論の知識に関するムジュタヒドであり、これを熟知しており、これに基づいて(規定を)導き出すこと及び学祖が明言したことに基づいて学祖が明言しなかったことを類推することに精通しているが、法規定においてもその根拠においても学祖の追随者ではなく、ただ、イジュティハードとファトワーの発出において学祖の道を歩み、学祖の学派へと呼び招き、それを整理し、定式化し、学祖の結論と方法論の双方において学祖と同意しているのである。
ハンバリー派ではアブー・ヤアラー、アブー・アリー・ブン・アブー・ムーサー、シャーフィイー派では多数の学者達が、この位階(の存在)を主張した。
ハナフィー派(学祖アブー・ハニーファ、没150/767)ではアブー・ユースフ(没182/798)、ムハンマド(アッ=シャイバーニー 没189/804)、ズファル・ブン・アル=フザイル(没158/775)に関し、シャーフィイー派(学祖シャーフィイー 没204/820)ではアル=ムザニー(没264/878)、イブン・スライジュ(没306/918)、イブン・ムンズィル(没309/921)、ムハンマド・ブン・ナスル・アル=マルワズィー(没294/906)に関し、マーリク派(学祖マーリク・ブン・アナス 没179/795)ではアシュハブ(没204/819)、イブン・アブド・アル=ハカム(没214/829)、イブン・アル=カースィム(没191/860)、イブン・ワフブ(没197/813)に関し、ハンバリー派(学祖アフマド・ブン・ハンバル 没241/855)ではイブン・ハーミド(403/1012没)、アル=カーディー(アブー・ヤアラー 没560/1165)に関し、彼らがイジュティハードにおいて独立していたのか(独立ムジュタヒドであったのか)、それとも学祖たちの法学派において限定されていた(学派内限定ムジュタヒドであった)のかについては二説に分かれている。
彼らの状態、そのファトワー、そして(意見の)選択を熟考したものは、彼らが自らの見解全般における学祖たちの追従者ではなく、彼らの学祖たちとの相違は ―その多寡に関わらず― 否定的である以上に明瞭であるが、彼らの位階はイジュティハードの独立性において学祖たちに及ばないことを知るのである*4。第3種の人々。所属する学祖の学派における(限定)ムジュタヒドであり、典拠によってその法学を定式化し、そのファトワーに通暁し熟知しているが、その見解やファトワーを踏み越えたり相違することはなく、学祖の明文がある場合にはそれに背くことは絶対にない。これが、学祖の学派における「編纂者」たちの多くの状況であり、各派のウラマーの大勢の状態であり、彼らの多くはクルアーン、スンナ及びアラビア語の学問・知識というものは必要ではないと考えている。というのも、彼は学祖の明文に満足しており、彼にとってそれは立法者の明文のようであり、困難と労苦を背負うよりもそれ(学祖の明文)に充足しており、学祖は規定の演繹や明文からそれを導き出す危険から彼を守るのである。また、彼は学祖が自らの典拠に基づいて規定を述べたのであるから、彼もそれに相反するもの(典拠)を探すことなくその典拠に満足するかも知れない。
これが、諸見解、諸方法論、大著あるいは小著の所有者たちの状況であり、彼らはイジュティハードを主張することもタクリード(追従)を認定することもなく、彼らの多くは「我らは諸学派についてイジュティハード(比較検討努力)を行ったところ、それらのうちで一番真理に近いのは我らの学祖の学派であると知った」と言う。彼らの全ては、学祖についてそのように述べ、学祖に追随することはそれ以外のものよりも良いと主張し、彼らの一部は度を越し、彼への追従を義務とし、彼以外への追従を禁じた。
そして、彼らをして、彼らが追従する者と模倣する者(学祖)を他者よりも学知が深く他者よりも追従するに相応しくその学派が常に妥当で正しいとさせ、アッラーと使徒の言葉に関してイジュティハード(解釈努力)しそこから規定を演繹し(シャリーアの)明文により支持される内容に重きを置くことを差し控えさせ、アッラーと使徒の言葉が明瞭の極みにあり箴言に満ち表現において決定的であり矛盾や相違と無縁であるというのに、彼らの懸念は彼らをしてそれ(アッラーと使徒の言葉)に関するイジュティハード(解釈努力)を差し控えさせ、彼らの学祖がウンマ(イスラーム共同体)において最もよく知り正しくその見解は有力さの極みにありクルアーンとスンナに合致しているとのイジュティハード(学的努力の結果としての結論)に至らしめたイジュティハード(諸学派の比較検討努力)のなんと驚くべきことか。アッラーこそは助けを求められるべきお方*5。第4種の人々。所属する学祖の学派について理解した一団で、そのファトワーや細則について記憶し、あらゆる面からして自らに対して純然たる模倣を(行うことを)定め、たとえ彼らが時としてクルアーンやスンナに言及することがあっても、それは実践や立証としてではなく、祝福獲得(tabarruk)や有難いもの(faḍīla)として行うのであり、自らの属する学祖の見解に相違する真正なハディースを知った場合にはそのハディースを放置して学祖の見解を採用し、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーなどの教友がファトワーを発出しているのを知り、自らの学祖にそれと相違するファトワーがあるのを見出した場合には、学祖のファトワーを採用し教友のファトワーを放置して、「学祖はそのことについて我々よりもよく知っており我々は彼に追随したのであるから、彼を踏み越えることはしない、否、彼は自らの到達したところ(結論)について我らよりもよく知っていた」と言うのである*6。
これら以外の者達は、(学問)従事者、修得者の段階に至っていない似非学者(mutakallif)、落伍者であり、「斯くの如しである」という者達の一味であり、 もし運に助けられて(人々の質問に)答える立場になったとしても、「その(規定の)条件がそろえば、それは許される」、「聖法上の阻却事由がない限り、それは許される」、「それは為政者の見解次第である」等のいかなる無学者であれ言い繕うことができあらゆる有徳者が恥じ入るような回答を述べるのである*7。
第1種のファトワーは王達の署名や紋章であり(それに異議を申し立てるものはなく)、第2種のファトワーは彼ら(王達)の代官や代理人の署名であり、第3、第4種のファトワーは彼ら(王達)の代官の代理人の署名であり、それ以外の者達は、与えられていない(はずの)もの(知識)に満ちた振りをし、学者達や有徳者達の猿真似をする者である。どの派にも、道を外れることに真剣で、その猿真似をするものがいるものである。アッラーこそは助けを求められるべきお方*8。
*1 ↑: 小杉泰『現代中東とイスラーム政治』昭和堂、1994年、96-97頁、中田考『イスラーム法の存立構造』ナカニシヤ出版、2003年、22-25頁、ワーイル・ハッラーク著 奥田敦編訳『イジュティハードの門は閉じたのか』慶應義塾大学出版会、2003年、50-53,61-63頁、堀井聡江『イスラーム法通史』山川出版社、2004年、131-134頁、等参照。
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