クルアーン(コーラン)の中で非常に有名な一節があります。
「今日、われ(アッラー)はおまえたちにおまえたちの宗教を完成させ、おまえたちにわれの恩寵を全うし、おまえたちに対して宗教としてイスラームを是認した」(5章3節)というものです。
これは、預言者ムハンマドが最晩年にマッカ(メッカ)へ大巡礼を行った際に下された啓示です。アッラーは人間の創造者であり、時間・空間を越えて全知全能であり、人間について人間よりも熟知している存在として理解されます。そのようなアッラーが、「宗教」を完成させた、ということですが、ここでこの「宗教」という言葉に若干の説明が必要となります。ここでいう「宗教」には、信仰箇条とともに行為規範・法が含まれているということが重要です。
例えば、クルトゥビーはこの「我々はおまえたちにおまえたちの宗教を完成させ」の部分に以下のような注釈を施しています。
預言者ムハンマドがマッカにおられた当時は礼拝の義務以外(の義務)は存在しなかった。彼がマディーナに来られてから、アッラーは許されたものと禁じられたものを降し給い、(それは)彼が大巡礼(ハッジ)を行うまで(続いた)。そして、彼が大巡礼を行われると、宗教が完成され、この節が降されたのである。
大学者達はターリク・ブン・シハーブからの伝承として次のように伝えている。ユダヤ教徒の男がウマル(第2代正統カリフ)の元を訪れ、「おお、信徒達の長よ、あなたたちが朗唱するあなたたちの啓典の一節ですが、もしそれが我々ユダヤ教徒の集合に降されたとしたら、その日を祝祭日としたでしょうに」と言った。ウマルが「それはどの節か」と尋ねると、その男は「今日、われはおまえたちにおまえたちの宗教を完成させ、おまえたちにわれの恩寵を全うし、おまえたちに対して宗教としてイスラームを是認した」(5章3節)と答えた。ウマルは、「私はそれが降された日、それが降された場所をまさに知っている。それは、アッラーの使徒に、アラファの地で、金曜日に降されたのである」と言った*1。また、この節が大巡礼の最重要日(犠牲際の日)に降され、アッラーの使徒がそれを読誦された際、ウマルが泣き、アッラーの使徒が「何がおまえを泣かせるのか(なぜおまえは泣くのか)」と尋ねられると、ウマルが「かつて我々は我々の宗教が増大する状態にありましたが、もしそれが完成したのであれば、完成したもので(後に)欠損しなかったものはないからです」と答え、預言者は彼に「おまえは真実を述べた」と言われた、と伝えられる*2。
また、「おまえたちにわれの恩寵を全うし、おまえたちに対して宗教としてイスラームを是認した」に関してクルトゥビーは以下のように注釈しています。
「おまえたちにわれの恩寵を全うした」とは、聖法(シャリーア)と(聖法の)諸規定を完成させたこと、そしてアッラーが約束し給うたようにイスラームを勝利させることによる。というのも、アッラーは「われがおまえたちに対するわれの恩寵を全うするために」(2章150節)と述べ給うており、それ(恩寵の全う)はマッカへの安全かつ安心な入城であり、またそれ以外にアッラーがこのひたむきな宗教を至高なるアッラーの慈悲にある楽園に入るようにと秩序立て給うたことである*3。
「おまえたちに対して宗教としてイスラームを是認した」とはアッラーがお前達のためにそれ(イスラーム)を宗教として是認・満足したことを教え給うという意味である。そして、至高なる彼は未だに我々に対してイスラームを宗教として是認し続け給うのであり、その是認はその(啓示の降された)日に限定されているわけではない*4。
そして、この節における「イスラーム」とは「アッラーの御許における宗教はイスラームである」(3章19節)におけるイスラームであり、天使ジブリールの預言者ムハンマドに対する質問において説明されている内容*5であり、それは信仰と行為と枝葉(具体的内容)である*6。
この解釈に従えば、アッラーの宗教(教え)が、次の性質を持つことになります。
(1)楽園へと導くものであり、有益である。
(2)その成立以降、終末まで時間を超えて是認されている。
(3)今後、新たな聖法(シャリーア)が降されることは無い。
(4)教えの名前はイスラームである。
(5)イスラームとは信仰と行為と枝葉(具体的内容)である。
また、預言者ムハンマドは預言者達の封緘(ハータム・アル=アンビヤーゥ)と呼ばれ、アッラーがこれまでにイブラーヒーム(アブラハム)、ムーサー(モーゼ)、イーサ―(イエス)に対して下した教え(宗教)の総まとめをするために遣わされた、最後の預言者であると考えられています*7。
このように、クルアーン(コーラン)によって導き出されるイスラームの教義は「完成された宗教」というドグマを有します。また、完成されたものは欠けざるを得ないとのウマルの言葉に表れているように、「完成された宗教」であるが故にその喪失に対する警戒心や恐怖心というものが当初から存在したことには注意が払われるべきかと思います。イスラームのこの様な特性は「逸脱・新規なこと」(ビドア)に対する警戒感に繋がります。
もちろん、このような「逸脱」の意味が時代によって推移することにも注意する必要があります。
西暦13世紀頃にイスラーム諸学が一応の完成を見た後は、「新規なこと」を嫌う学者たちは新たな学説の提唱よりも、既存の学問の枠組みの遵守と精緻化にいそしんだと言われます。近代に入ると、「模倣(タクリード)」と呼ばれるこのような学者の態度そのものが、旧套を墨守するだけの「逸脱」であるとし、クルアーンやスンナ(預言者の慣行)の直接参照を訴える復古主義(サラフィー主義)が現れました。
この様に、イスラームが「逸脱・新規なこと」を嫌うということの意味は、より動態的に理解される必要があります。
*1 ↑: ムスリム協会版では以下に所載されている。http://sahihmuslim.jp/hadith/vol3-823.html
*2 ↑
ورُوِي أنها ” لما نزلت في يوم ٱلحجّ الأكبر وقرأها رسول الله صلى الله عليه وسلم بكى عمر؛ فقال له رسول الله صلى الله عليه وسلم: «ما يُبْكِيك»؟ فقال: أبكاني أنّا كنا في زيادة من دِيننا فأما إذ كمل فإنه لم يكمل شيء إلاَّ نَقَص. فقال له النبي صلى الله عليه وسلم: «صدقت» ”
ورَوى مجاهد أن هذه الآية نزلت يوم فتح مكة.قلت: القول الأول أصحّ، أنها نزلت في يوم جُمعة وكان يوم عَرَفة بعد العصر في حجّة الوداع سنة عشر ورسول الله صلى الله عليه وسلم واقف بعَرَفَة على ناقته العَضْبَاء، فكاد عضدُ الناقة يَنْقَدّ من ثقلها فبركت.
http://altafsir.com/Tafasir.asp?tMadhNo=1&tTafsirNo=5&tSoraNo=5&tAyahNo=3&tDisplay=yes&Page=10&Size=1&LanguageId=1
http://altafsir.com/Tafasir.asp?tMadhNo=1&tTafsirNo=5&tSoraNo=5&tAyahNo=3&tDisplay=yes&Page=11&Size=1&LanguageId=1
*3 ↑
http://altafsir.com/Tafasir.asp?tMadhNo=1&tTafsirNo=5&tSoraNo=5&tAyahNo=3&tDisplay=yes&Page=11&Size=1&LanguageId=1
なお、「アッラーが」と訳した箇所は、原文では「われが」となっている。
*4 ↑
*5 ↑: http://islam.ne.jp/6and5/6and5 を参照
*6 ↑
*7 ↑: http://islam.ne.jp/nabi/nabi9 を参照