イスラーム史の初期には「信仰と行為」の関係が重要な問題となり、様々に議論されました。「信仰と行為」を巡る議論は、純粋に思弁的なものと言うよりは、より現実の問題に即した形で生まれてくることになりました。そして、「イスラームにおいて政治と宗教とは不可分であり、神学論争も現実の政治状況の中から生まれてくる」*1、「初期の神学論争はムハンマド没後の政治的混乱の中にその萌芽をみた」*2といわれるように、イスラーム最初の分派であるハワーリジュ派は政治集団であり、神学集団でもありました。政治と宗教というと互いに相容れない関係のように思われますが、「正しい指導者」「正しい統治」を求める政治と、「正しい教義」「正しい信条」を求める神学はその「正しさ」を求めるという方向性において共通点がありました。
ハワーリジュ派の由来は一般的に、「外に出たもの、退去した者」*3、「脱出した人々」*4、(第4代カリフのアリーの軍勢を離れ反乱拠点へと)「クーファから脱出したというこのエピソードにこそ、ハワーリジュ派の『出て行った者たち』との彼らの名前の由来がある」*5等とあるように、「出た(ハラジャخرج)者」とされています。
では、彼らはなぜ出て行ったのでしょうか。ことは、第3代カリフ・ウスマーンの殺害に遡ります。第1代カリフのアブー・バクルによって始められたアラビア半島外への大征服は、第2代カリフのウマルの代に本格化し、それに伴って行政制度も整備され始めました。例えば、この時代に戦士への俸給支払の必要性から設置されたディーワーン(「帳簿」「名帳」「台帳」)は、後には「官庁」を指す用語となります。さて、ウマルは私怨を募らせたペルシア人奴隷により暗殺されたのですが、次いでウスマーンが第3代カリフとなりました。しかし、急速にイスラームの版図が拡大したことにより社会構造や体制に急激な変化が生じ、ついには不満を持つ者たちが反乱を起こしウスマーンの屋敷を包囲します。ウスマーンは叛徒を討伐することも出来たのですが、「人の命の故にでも、あるいは地上での害悪でのせいでもなく、人ひとりを殺したものは人々(人類)全てを殺したようなものであり、人ひとりを生かしたものは人々(人類)全てを生かしたようなものである」とのクルアーン(コーラン)の教えに忠実であったウスマーンは流血を嫌い*6、ついには叛徒によって殺害されました。
その直後に、アリーが第4代カリフに推戴され、就任します。これに対しウスマーンの一族の代表であるウマイヤ家のムアーウィヤはアリーのカリフ就任を認めず、叛旗を翻し、両軍はスィッフィーンにて衝突することになります。アリーは会戦では優位にあったと言われますが、敗戦を危惧したムアーウィヤ側の停戦要求に応じます。
ところが、アリーが停戦要求に応じたため、この和平を不服とする集団が「アッラーの他に裁定なし」と唱え、離反します*7。これがハワーリジュ派の起源です。
*1 ↑: 小林 春夫「神学と哲学」山内 昌之ら編『イスラームを学ぶ人のために』世界思想社, 1993, p.52.
*2 ↑: 塩尻 和子「神学」三浦 徹ら編『イスラーム研究ハンドブック』栄光教育文化研究所, 1995, p.42.
*3 ↑: 大川玲子「ハワーリジュ派」『岩波イスラーム辞典』
*4 ↑: 花田宇秋「ハワーリジュ派」『新イスラム事典』平凡社
*5 ↑: “It is to this episode of the exodus from Kufa that the Khawaridj owe their name (“those who went out”), more probably than to a general epithet expressing the idea that they had gone out of the community of the faithful, as it was later interpreted, probably at quite an early period.” (G. Levi Bella Vida, “Kharidjites”, E.I.2)
*6 ↑: http://islam.ne.jp/modernmuslim/modernmuslim-04
*7 ↑: なお、シャフラスターニーは、当初はハワーリジュ派は和平論者であったものの和平内容に異議を唱えて離反したとしています。