クルアーンがそれ以前の諸啓典を確証するものとしてもたらされたのだ、という信条についてはすでに述べました。その根拠となっているのは、クルアーンの第3章3節で、
彼(注:アッラー)はおまえ(注:預言者ムハンマド)の上に真理をもって、それ以前のもの(注:諸啓典)を確証する(ないし裏付ける)ものとして、その啓典(注:クルアーン)を下し給うた。そしてまた、タウラー(トーラー)とインジール(福音書)を下し給うた
という内容でした。ここでは、クルアーンがそれ以前の啓典であるモーセ五書や福音書を確証する(裏付ける)ものであるされています。
ここまでが表面的な理解ですが、クルアーンの解釈書を読んでいくともっと面白い記述があ ります。それは、「それ以前のもの(注:諸啓典)の真実性を確証する(ないし裏付ける)ものとして、その啓典(注:クルアーン)を下し給うた」とのクル アーンの表現は、クルアーンとそれ以前の諸啓典とが裏付けあう関係にあることを示している、という解釈*1です。なぜ、このような解釈がありうるのでしょうか。
クルアーン解釈書はイスラーム学者がアラビア語を理解する人間に向けて書いているので、 彼らにとって自明のことを説明してくれるわけではないのですが、アラビア語で確証する・裏付ける、という言葉が使われるとき、内容が一致しているのはある 意味で当然だからでしょう。例えば、「某年某月某日にザイドさんが東京にいた」という情報Aがあり、証拠Bがこれを確証する・裏付けるとします。この場合、証拠Bが指し示す内容は「某年某月某日にザイドさんが東京にいた」ということです。すなわち、情報Aの内容と証拠Bが指し示す内容は同一になる、ということです。
また、アッラーによってモーゼとイエスに下された当時の純粋な啓示は、現行の歴史的経緯によって成立したモーセ五書および福音書とは違うために、クルアーンとモーゼおよびイエスの時代の純粋な啓示との間に相違はない、という意味でもあります。
少しややこしいかもしれませんが、クルアーン(コーラン)の解釈技術には、こういった言葉の持つ意味の奥に踏み入って日常的な言葉の使用法を改めて見直してみる、という方法もとられます。クルアーン解釈学は、「頭の体操」になる学問でもあるのです。
(K.S.)
*1 ↑
تفسير ابن كثير
قوله ” مصدقا لما بين يديه ” أي من الكتب المنزلة قبله من السماء على عباد الله والأنبياء فهي تصدقه بما أخبرت به وبشرت في قديم الزمان وهو يصدقها لأنه طابق ما أخبرت به وبشرت من الوعد من الله بإرسال محمد صلى الله عليه وسلم وإنزال القرآن العظيم عليه. وقوله ” وأنزل التوراة ” أي على موسى بن عمران ” والإنجيل” أي على عيسى ابن مريم عليهما السلام .
تفسير القرطبي
مُصَدِّقًا : حال مؤكدة غير منتقلة ; لأنه لا يمكن أن يكون غير مصدق , أي غير موافق ; هذا قول الجمهور . وقدر فيه بعضهم الانتقال , على معنى أنه مصدق لنفسه ومصدق لغيره .