●どうしておまえたちにアッラーを否定できようか(未完了形)。御前達は死んでいたが、彼が御前達を生かした(完了形)。それから彼は御前達を死なせ、それから彼は御前達を生かし、それから御前達は彼の許に戻されるのである(未完了形)〔2:28〕。
解釈学者達は同節の解釈を巡って意見が分かれている。
[1]【1】ムーサー・ブン・ハールーンがアブー・マーリク、イブン・アッバース、イブン・マスウード、及び教友の人々からの伝承として以下を述べている*1。人々は何ものでもなかったが、アッラーが人々を創造し、それから死なせ、復活の日に人々を生かすのである*2。同様の見解を取るものは多い*3。
この見解を取る者の主張は、何ものでもなかった状態を死としている点にあるのだが、このような語法は、取るに足らない事柄や打ち棄てられたような事柄*4を比喩的に死とする用例やアラブ詩句の中に見られるものである*5。従って、この章句の解釈は、御前達はかつて言及されることもない取るに足らない存在つまり死であったが、神が御前達を生きた人と成し知られるようにまた言及されるようになり、それから神は御前達の霊魂を取り上げることにより死なせ、言及されず影響も消え去り事跡が知られることもないかつての状態に御前達を戻し、それから御前達の体をその形に戻し霊魂を吹き込むことによって御前達を生かし、かつてのような人間と成して復活や集合の際に御前達同士が知り合うようになる*6。
[1]【2】アブー・クライブがアブー・サーリフからの伝承として次のとおり述べている*7。この節は墓中での復活と死を意味する*8。
この見解を取る者の主張は、死を霊魂の肉体からの離脱と理解することにある。すると、この節はアッラーが墓中で復活した人間に語りかけている内容と理解されるが、解釈としては弱い。というのも、墓中の人間は悔悟できないが、この節の内容は彼らの過去の罪に対する非難であるからである*9。[1]【3】ビシュル・ブン・ムアーズがカターダからの伝承として次のとおり伝えている*10。彼らはかつて父の腰で死んだ状態であったが神が彼らに命を与え創造し、そののち神が彼らに不可避の死を与え、そののち神が彼らを復活の日に蘇らし、従って2つの生と2つの死があることになる*11。
この解釈を取る者の主張は、次のとおりである。かつて彼らは父の腰で霊魂の無い精子であったが、全ての霊魂を有さないものが死んだものであるという意味に於いて死んでいた。至高なる神がそれを生かしたということは神がそれに霊魂を吹き込んだことを、そののち神が彼らを死なせたとは神が彼らの霊魂を取り上げたことを、そののち神が彼らを生かせたとは笛が吹かれ被造物が復活する日に彼らの肉体に霊魂が吹き込まれることをそれぞれ意味する*12。
[1]【4】ユーヌス・ブン・アブドゥ・アル=アアラーがイブン・ザイドからの伝承として次のとおり述べている*13。神は「原初の契約」*14を取った際にアーダム(アダム)の腰から彼らを創造した。そして7章172ー173にあるように、彼らに知性を与えた上で「原初の契約」を取った。その後、4章1節*15にあるようにアダムとハウワー(イブ)から彼らを多くの人々として子宮の中に撒き散らした。39章6節*16には「彼はおまえたちをおまえたちの母親の腹の中で一つの創造からまた一つの創造へと創り給うた」とある。従って、神は「原初の契約」を取った後に彼らを死なせ、それから彼らを子宮の中に創造し、それから死なせ、それから復活の日に命を与えるのである。これは40章11節にも述べられているとおりである*17。
この解釈はイブン・ザイド自身によって次のように説明されている。第1の死*18とは神が「原初の契約」後に人々をアーダムの腰に戻したこと、第2の生とは母胎で彼らに霊魂が吹き込まれること、第2の死とは霊魂を取り出し(肉体を)土に戻した後の復活までの墓中(バルザフ)での状態、第3の生とは復活の日の蘇りを指す*19。
しかしながら、この解釈は2回の死と2回の生〔40:11〕と矛盾する。イブン・ザイドは神が彼らを3回生かし3回死なせたと主張する。我々の考えでは、原初契約と2章28節及び40章11節とは全くの無関係である。なぜならばアッラーが、その日(原初契約の日)に粒子(アーダムの子孫)を殺した、とは誰一人主張していないからである。そうではなく、それによって復活の日までバルザフにいることになる「死なせること( الإماتة )」 *20があるだけなのである。仮に、アッラーがその日にその粒子を殺したのであれば、イブン・ザイドが立論したような立論も可能であるのだが*21。
[1]【5】次のような解釈を取る者もある。第1の死とは、精子が男性の体を離れた時から女性の子宮に至るまでを指す、つまり精子は男性の体を離れた直後から霊魂が吹き込まれるまで死んだ状態である。それから神が霊魂を吹き込み段階を追って人間と成し、霊魂を取り上げることによって第2の死を与える。彼は墓中(バルザフ)においては復活の日まで死んだ状態であり、笛の吹かれる復活の日に蘇らされる*22。
この説を唱えるものは、霊魂を有するものの死とは、そのものと霊魂との離別であるとする。従って、霊魂を有する生命体から離別した全てのもの ―諸器官の一部などの― は死んだものとなる。例えば、生命体の両手のうちの片手、両足のうちの片足などが切断された場合には、切断された部分は死んだものとなる*23。
以上の諸説の中で一番有力な説は、[1]【1】である。取るに足らない存在*24が「死」であるとすれば、精子の状態は取るに足りない存在であり、この世に生を受けることによって言及・記憶され、知られ、つまり生きるのである。また、霊魂が取り出されることにより死に、墓中では(人々に)知られることもなければ言及されることもない。その後、復活の日に霊魂が吹き込まれて蘇るのである*25。
我々が[1]【1】が最有力説であるとする理由は、2章28節が「また、人々の中には『われらはアッラーと最後の日を信じる』と言うにも関わらず、信仰者ではない者たちがいる」〔2:8〕に対応しており、これらの者に対する叱責だからである*26。
なお、タバリーの注釈書はクルアーン40章11節の解釈に関し、2章28節の解釈において既に述べたとした上で、上記[1]【3】と[1]【1】を特に相互の区別無く紹介した後、[1]【2】及び[1]【4】の説にそれぞれ言及するに留めています。
2章28節には5つの解釈が紹介されていました。これらを整理しますと、以下のようになります。
[1]【1】死を「何ものでもない状態」、「取るに足らない存在」、「言及されない存在」、「記憶されない存在」と比喩的に理解する解釈。アッラーが現世で生きている人間に語りかけている内容と理解される。アッ=タバリーはこの解釈を最有力説と見なす。
- 第1の死=現世に生を受ける前の「取るに足らない存在」。
- 第1の生=神によって現世に生を受け、人として知られるようになった状態。
- 第2の死=現世での死以降の「取るに足らない存在」。
- 第2の生=復活の日に蘇らされ、人として知られるようになった状態。
[1]【2】死を霊魂の肉体からの離脱と理解する解釈。アッラーが墓中で復活した人間に語りかけている内容と理解される。解釈として弱いとされる。
- 第1の死=現世での死
- 第2の生=墓中での復活
- 第2の死=墓中での死
- 第2の生=来世での復活
[1]【3】死を霊魂の不在と理解する解釈。
- 第1の死=精子の状態
- 第1の生=霊魂が吹き込まれた状態
- 第2の死=現世における死
- 第2の生=復活の日の蘇り
[1]【4】「原初の契約」に着目した解釈。解釈として弱いとされる。
- 第1の死=「原初の契約」以前の状態
- 第1の生=「原初の契約」の際の生
- 第2の死=「原初の契約」の後の死*27
- 第2の生=現世における生
- 第3の死=現世での死
- 第3の生=来世での復活
[1]【5】体の一部分等が霊魂ある本体から離別することを死とする解釈。
- 第1の死=精子の肉体からの分離
- 第1の生=現世へ生を受ける
- 第2の死=現世での死
- 第2の生=来世での復活
*1 ↑
↓ ↓ ↓ ↓
┃ アブー・サーリフ ムッラ ┃
┃ ↓ ↓ ┃
┣━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━┛
┗→ アッ=スッディー → アスバート → アムル・ブン・ハマード → ムーサー・ブン・ハールーン → アッ=タバリー
*2 ↑ 以上は、アッラーが現世で生きている人間に語りかけている内容と理解される。
*3 ↑
*4 ↑ 記憶・言及されない事柄
*5 ↑
*6 ↑
*7 ↑ アブー・サーリフ → アッ=スッディー → スフヤーン → ワキーウ → アブー・クライブ → アッ=タバリー
*8 ↑
*9 ↑
*10 ↑ カターダ → サイード → ヤズィード・ブン・ズライウ → ビシュル・ブン・ムアーズ → アッ=タバリー
*11 ↑
*12 ↑
*13 ↑ イブン・ザイド → イブン・ワフブ → ユーヌス・ブン・アブドゥ・アル=アアラー → アッ=タバリー
*14 ↑ クルアーンの7章172~173節が「原初の契約」の根拠である。
●また、おまえの主がアーダムの子孫から、彼らの腰からその子孫を取り出し、彼ら自身の証人とならせ給うた時のこと。「われはおまえたちの主ではないか。」彼らは言った。「いかにも。われらは証言する。」おまえたちが審判の日に、「まことにわれらはこれについて見落としていた。」と言わないためである。〔7:172〕
●あるいは、おまえたちが、「われらの父祖が以前から多神を拝し、われらは彼らの後の子孫である。虚偽をなす者たちがなしたことでわれらを滅ぼし給うのか。」と言わないためである。〔7:173〕
詳しくは鎌田繁、「イスラームにおける契約一原初の契約をめぐって」、竹下政孝編、『イスラームの思考回路』、(『講座イスラーム世界』)、栄光教育文化研究所、pp. 145~174を参照。
*15 ↑ 人々よ、おまえたちの主を畏れ身を守れ。一人からおまえたちを創り、また、そこからその配偶者を創り、両者から多くの男と女を撒き散らし給うた御方。アッラーを畏れ身を守れ。おまえたちが彼に誓って頼みごとをし合う御方。また、血縁を。まことにアッラーはおまえたちを看視し給う御方。
*16 ↑ 彼はおまえたちを一つの命(アーダム)から創り、次いで、それからその伴侶(ハウワーゥ=イブ)をなし、おまえたちのために家畜から八頭のつがいを下し給うた。彼はおまえたちをおまえたちの母親の腹の中で一つの創造からまた一つの創造へと三つの闇の中で創り給うた。それこそがアッラー、おまえたちの主であり、彼にこそ王権は属す。彼のほかに神はない。それなのに、いかにしておまえたちは逸らされるのか。〔39:6〕
*17 ↑
*18 ↑ これに先立つ「原初の契約」の際の生が、第1の生である。
*19 ↑
*20 ↑ つまり現世における死
*21 ↑ 直訳するなら、「なぜならばアッラーが、その日(原初契約の日)にその粒子(アーダムの子孫)を、それによって復活の日までバルザフにいることになる「死なせること」ではなく、殺し給い、イブン・ザイドが立論したような立論も可能となるように殺し給うた、とは誰一人主張していないからである。」つまりアーダムの腰から引き出した後に元の状態に戻したことをもって「殺した」とは誰も言っていない、ということ。
*22 ↑
*23 ↑
*24 ↑ 文字通りには記憶・言及されない存在の意
*25 ↑
*26 ↑
*27 ↑ 本文中ではこれが第1の死とされているが、イブン・ザイドが生と死をそれぞれ3つと数えているので、「原初の契約」以前の状態を死と数えた方が適切であると思われる。