救済はアッラーの慈悲のみによる

 イスラームに関する誤解の一つに、人間は行為によって救済されるという誤解があります。

 確かにイスラームは善行を奨励する教えであることに間違いはありませんが、善行が救済を保証するというものでもありません。ここで言う救済(نجاة)とは、「楽園、すなわち天国*1に入る」という意味です。

 それでは、人間は何によって救済され、死後に救われると理解されているのでしょうか。次のハディース(預言者の言行録)は救いがアッラーの慈悲のみによる、と明瞭に述べています。

 中庸の道を歩むことと(良い)行為の継続性の節*2

 アブーフライラが伝えるところによると、預言者は

「あなたたちの誰であれ、その行為によって救済される者はない」と言われた。

 そこで人々が「預言者よ、あなたもですか?」と問うたところ、預言者は

「私もである。アッラーがその慈悲によって私を包み給うのでなければ。正しいことを行いなさい、続くようなやり方で行いなさい、早朝に道を行きなさい、午後に道を行きなさい、夜の一時にも道を行きなさい*3、中庸の道、中庸の道を歩みなさい、そうすれば到達するであろう」

と言われた(ブハーリー)*4

 このように、救済はアッラーの慈悲のみによる、という大原則が存在します。

 しかし、このハディース(預言者の言行録)に矛盾するようなクルアーン(コーラン)の記述があります。「それが、お前たちが行ったことによって、お前たちが継がせられた楽園である」(43章72節)や「それは、天使達が善良な者として召し上げた者達で、彼ら(天使)は言う『お前たちに平安あれ。お前たちが行ったことによって、天国に入れ』と」(16章32節)等がそれに当たります。

 このような矛盾を解きほぐし、両者を整合的に解釈するために、あるハディース(預言者の言行録)注釈書では以下のような説明が行われます。

 「あなたたちの誰であれ、その行為によって救済される者はない」との預言者の御言葉が「それが、お前たちが行ったことによって、お前たちが継がせられた楽園である」(43章72節)とのアッラーの御言葉と矛盾すると考える者は、次のように反論される。

 それは思い違いである。ハディースの意図するところと、クルアーンの章句の意図するところは別なのである。

 預言者は、誰であれその行為が楽園に入ることに価する(يستحق)者は存在せず、神の僕はアッラーの慈悲によって楽園に入るのであると教示されている。アッラーはクルアーンの章句において、天国の中の居所(المنازل)が行為に応じて獲得されると教示されている。そして、天国における僕の諸階層(درجات)が行為の違いに応じて多様であるということは周知である。

 つまり、クルアーンの章句の趣旨は(天国における)諸階層の高低と恩寵の多寡(の行為による決定)であり、ハディースの趣旨は楽園へ入りそこに永続すること(がアッラーの慈悲によるということ)である。従って、両者の間には何の矛盾も存在しない(イブン・バッタールの注釈書)*5

 以上の議論を要約すると次のようになります。

 ①まず、アッラーの慈悲によって、人間は楽園に入ります。

 ②人間が善行をしたとしても、それによって楽園に入る権利を獲得するわけではありません。すなわち、アッラーと人間との関係は対等ではなく、与える者と与えられる者という関係にあります。

 ③楽園の中には多くの階層があります。

 ④人間はアッラーに認められた善行の程度によって各階層の居所に赴きます。

 さらに、イブン・バッタールの注釈書は次のように続けます。

 「『お前たちに平安あれ。お前たちが行ったことによって、天国に入れ』とのアッラーの御言葉も同様に楽園に入ることが行為によると教示している」と言われた場合の返答は以下のとおりである。

 「お前たちに平安あれ。お前たちが行ったことによって、天国に入れ」とのアッラーの御言葉は概括的であり、(「あなたたちの誰であれ、その行為によって救済される者はない」との)ハディースによって詳細が明らかにされる。その含意するところは、「お前たちが行ったことによって、楽園の居所や邸宅に入れ」であり、この章句はこのハディースによる説明を必要とするのである*6

 以上の解釈は、行為の重要性を否定するのではありません。別の注釈書では、アッラーの慈悲により救済されるとのハディース(預言者の言行録)の中に善行の奨励があることについて、以下のように説明しています。

 「正しいことを行いなさい」との表現は、ムスリム*7による別の伝承*8においては、「しかしながら、正しいことを行いなさい」とある。ここで「しかしながら」という表現が使われているのは、「私も(行為によって救済されることがないの)である」という表現が行為の有益性を否定していると受け取られかねないからである。

 これは、次のように言われているかのようである。

 (行為によって救済されることはない)「しかしながら行為は有益である」、行為は行為者を楽園に入れる慈悲の存在の兆候であるから、正しい行為を行いなさい、正しい行為とは行為が神に受け入れられるように心づくしなどにおいてスンナ(預言者の慣行)を踏襲することであり、そしてアッラーの慈悲が下るのである(イブン・ハジャルの注釈)*9

 アッラーと人間とは創造主と被造物の関係であり、主人と僕との関係にも喩えられます。従って、人間が行為によって救済されるというのはおこがましい発想として退けられます。行為も、あくまでも神が人間に対して与える慈悲や恩寵の兆候として捉えられています。そこには、人間が善行を行うとすればそれはアッラーの慈悲や恩寵によるのであり、行った善行の結果さらに慈悲や恩寵がもたらされる、という背景理解があります。

 つまり、

 ①そもそもの始まりとして、アッラーの慈悲や恩寵があります。

 ②神の慈悲や恩寵によって、人間は行為を行うことが出来ます。例えば、人間の能力も神の恩寵の結果です。

 ③人間の行為が真に善行として神によって認められた場合、その行為が神に受け入れられます。

 ④アッラーにより認められた善行に対し、アッラーがさらなる慈悲や恩寵を下賜します。

 さらに、先ほどのイブン・バッタールの注釈とは別の解釈も存在します。こちらの解釈は、クルアーン(コーラン)の章句にある行為という言葉により比重を置いたものとなっています。

 (行為によって天国に入る者はないとの)一連のハディースの字義は、(アッラーへの)服従行為が報酬や楽園に価する(يستحق)者は誰も存在しないということを真理の徒へ示している。これに対し、「お前たちが行ったことによって、天国に入れ」(16章32節)や「それが、お前たちが行ったことによって、お前たちが継がせられた楽園である」(43章72節)等、行為によって楽園に入ることが出来ることを示すクルアーンの章句が存在するがこれは一連のハディースと矛盾しない。クルアーンの章句は、天国に入ることが行為、そして行為の動機付け、純粋な行為への導き、行為がアッラーに嘉されること(という一連の)アッラーの慈悲と恩恵によるものであることを意味している。

 従って、ハディースのいうように単に行為のみで楽園に入るのではないというのも正しいし、(クルアーンのいうように)アッラーの慈悲による行為を原因として楽園に入るというのも正しい。アッラーこそが一番良く知り給う(アル=ナワウィーの注釈)*10

 以上の注釈は次のように纏められます。

 ①そもそもの始まりは、アッラーの慈悲や恩寵です。

 ②神の慈悲や恩寵によって、人間は行為を行うことが出来ます。

 ③行為の動機付けも神の恩寵です。

 ④行為は純粋に神のためだけになされる必要がありますが、そのような心構えが出来るのは神の導きによります。

 ⑤人間の行為が真に善行としてアッラーによって認められた場合、その行為がアッラーに受け入れられますがこれもアッラーの慈悲によるものです。

 ⑥これらの結果、人間が楽園に入ります。

 イブン・バッタールの注釈と、アル=ナワウィーの注釈はいずれもクルアーン(コーラン)とハディース(預言者の言行録)を整合的に解釈することを目的としています。その際に、クルアーンとハディースのどちらの表現に力点を置くかで解釈の相違が生じていますが、アッラーの慈悲がなければ救いに預かることは出来ないという大枠に於いては一致しています。

 イスラームには多様な解釈があるとも言われますが、大枠においては一致している中で多様な解釈が見られるという場合も多いと思われます*11


*1 楽園、天国、共にアラビア語のジャンナ(الجنة)の訳語である。

*2

باب الْقَصْدِ وَالْمُدَاوَمَةِ عَلَى الْعَمَلِ
قوله: (باب القصد) بفتح القاف وسكون المهملة، هو سلوك الطريق المعتدلة، أي استحباب ذلك؛ و سيأتي أنهم فسر والسداد بالقصد وبه تظهر المناسبة. فتح الباري، الرياض، 2005، ج 14، ص 596

*3 この時間帯は、(砂漠気候の地域では)旅がしやすい時間である、とする注釈もあります。

قوله: (فسددوا) أي: الزموا السداد وهو الصواب من غير إفراط ولا تفريط، قال أهل اللغة: السداد التوسط في العمل. قوله: (وقاربوا) أي إن لم تستطيعوا الأخذ بالأكمل فاعملوا بما يقرب منه. قوله: (وأبشروا) أي بالثواب على العمل الدائم وإن قل، والمراد تبشير من عجز عن العمل بالأكمل بأن العجز إذا لم يكن من صنيعه لا يستلزم نقص أجره، وأبهم المبشر به تعظيما له وتفخيما. قوله: (واستعينوا بالغدوة) أي استعينوا على مداومة العبادة بإيقاعها في الأوقات المنشطة. والغدوة بالفتح سير أول النهار. وقال الجوهري: ما بين صلاة الغداة وطلوع الشمس. والروحة بالفتح السير بعد الزوال. والدلجة بضم أوله وفتحه وإسكان اللام سير آخر الليل، وقيل سير الليل كله، ولهذا عبر فيه بالتبعيض، ولأن عمل الليل أشق من عمل النهار. وهذه الأوقات أطيب أوقات المسافر، وكأنه صلى الله عليه وسلم خاطب مسافرا إلى مقصد فنبهه على أوقات نشاطه، لأن المسافر إذا سافر الليل والنهار جميعا عجز وانقطع، وإذا تحرى السير في هذه الأوقات المنشطة أمكنته المداومة من غير مشقة. وحسن هذه الاستعارة أن الدنيا في الحقيقة دار نقلة إلى الآخرة، وأن هذه الأوقات بخصوصها أروح ما يكون فيها البدن للعبادة. فتح الباري، ج1، ص 175-6.

*4 牧野信也訳『ハディース』5巻、455頁に該当。牧野訳では「だから、あなた方は正しい道を行き、少しでも目的に近づくよう朝に夕にそして夜中も行に励みいそしめ。そうすれば目標に達するだろう」とあるが、中庸と行為の持続性というこのハディースの趣旨が伝わりにくい訳となっている。同様の表現は、牧野信也訳『ハディース』1巻、41頁にもあるが、「朝の祈り、夕の祈り、そしていくばくかの夜の祈りに助けを求めよ」と訳されており、こちらの方が中庸と行為の持続性という趣旨をよりよく伝えている。

الحديث: حَدَّثَنَا آدَمُ حَدَّثَنَا ابْنُ أَبِي ذِئْبٍ عَنْ سَعِيدٍ الْمَقْبُرِيِّ عَنْ أَبِي هُرَيْرَةَ رَضِيَ اللَّهُ عَنْهُ قَالَ قَالَ رَسُولُ اللَّهِ صَلَّى اللَّهُ عَلَيْهِ وَسَلَّمَ لَنْ يُنَجِّيَ أَحَدًا مِنْكُمْ عَمَلُهُ قَالُوا وَلَا أَنْتَ يَا رَسُولَ اللَّهِ قَالَ وَلَا أَنَا إِلَّا أَنْ يَتَغَمَّدَنِي اللَّهُ بِرَحْمَةٍ سَدِّدُوا وَقَارِبُوا وَاغْدُوا وَرُوحُوا وَشَيْءٌ مِنْ الدُّلْجَةِ وَالْقَصْدَ الْقَصْدَ تَبْلُغُوا. فتح الباري، ج14، ص594-5
قال أبو عبيد: المراد بالتغمد الستر، وما أظنه إلا مأخوذا من غمد السيف لأنك إذا أغمدت السيف فقد ألبسته الغمد وسترته به. قال الرافعي: في الحديث أن العامل لا ينبغي أن يتكل على عمله في طلب النجاة ونيل الدرجات لأنه إنما عمل بتوفيق الله، وإنما ترك المعصية بعصمة الله، فكل ذلك بفضله ورحمته. قوله: (سددوا) في رواية بشر بن سعيد عن أبي هريرة عند مسلم (( ولكن سددوا ))، ومعناه اقصدوا السداد أي الصواب، ومعنى هذا الاستدراك أنه قد يفهم من النفي المذكور نفي فائدة العمل، فكأنه قيل بل له فائدة وهو أن العمل علامة على وجود الرحمة التي تدخل العامل الجنة فاعملوا واقصدوا بعملكم الصواب أي اتباع السنة من الإخلاص وغيره ليقبل عملكم فينزل عليكم الرحمة. قوله (وقاربوا) أي لا تفرطوا فتجهدوا أنفسكم في العبادة لئلا يفضي بكم ذلك إلى الملال فتتركوا العمل فتفرطوا، وقد أخرج البزار من طريق محمد بن سوقة عن ابن المنكدر عن جابر ولكن صوب إرساله، وله شاهد في الزهد لابن المبارك من حديث عبد الله بن عمرو موقوف ” إن هذا الدين متين فأوغلوا فيه برفق، ولا تبغضوا إلى أنفسكم عبادة الله فإن المنبت لا أرضا قطع ولا ظهرا أبقى ” والمنبت بنون ثم موحدة ثم مثناة ثقيلة أي الذي عطب مركوبه من شدة السير، مأخوذ من البت وهو القطع أي صار منقطعا لم يصل إلى مقصوده وفقد مركوبه.
الذي كان يوصله لو رفق به. وقوله “أوغلوا ” بكسر المعجمة من الوغول وهو الدخول في الشيء. قوله (واغدوا وروحوا وشيئا من الدلجة) في رواية الطيالسي عن ابن أبي ذئب ” وخطا من الدلجة ” والمراد بالغدو السير من أول النهار، وبالرواح السير من أول النصف الثاني من النهار، والدلجة بضم المهملة وسكون اللام ويجوز فتحها وبعد اللام جيم سير الليل يقال سار دلجة من الليل أي ساعة فلذلك قال شيئا من الدلجة لعسر سير جميع الليل، فكأن فيه إشارة إلى صيام جميع النهار وقيام بعض الليل وإلى أعم من ذلك من سائر أوجه العبادة، وفيه إشارة إلى الحث على الرفق في العبادة وهو الموافق للترجمة، وعبر بما يدل على السير لأن العابد كالسائر إلى محل إقامته وهو الجنة، وشيئا منصوب بفعل محذوف أي افعلوا، وقد تقدم بأبسط من هذا في كتاب الإيمان في ” باب الدين يسر”. قوله (والقصد القصد) بالنصب على الإغراء أي الزموا الطريق الوسط المعتدل، ومنه قوله في حديث جابر ابن سمرة عند مسلم ” كانت خطبته قصدا ” أي لا طويلة ولا قصيرة، واللفظ الثاني للتأكيد، ووقفت على سبب لهذا الحديث: فأخرج ابن ماجه من حديث جابر قال ” مر رسول الله صلى الله عليه وسلم برجل يصلي على صخرة فأتى ناحية فمكث ثم انصرف فوجده على حاله فقام فجمع يديه ثم قال: أيها الناس عليكم القصد، عليكم القصد”. فتح الباري.

*5

فإن قال قائل: فإن قوله عليه السلام : (( لن يدخل أحدكم عمله الجنة )) يعارض قوله تعالى *( وتلك الجنة التي أورثتمنوها بما كنتم تعملون)* قيل: ليس كما توهمت، ومعنى الحديث غير معنى الآية، أخبر النبي (ع) في الحديث أنه لا يستحق أحد دخول الجنة بعمله، و إنما يدخلها العباد برحمة الله، و أخبر الله تعالى في الآية أن الجنة تنال المنازل فيها بالأعمال، ومعلوم أن درجات العباد فيها متباينة على قدر تباين أعمالهم، فمعنى الآية في ارفتاع الدرجات و انخفاضها و النعيم فيها، ومعنى الحديث في الدخول في الجنة والخلود فيها، فلا تعارض بين شيء من ذلك. ابن بطال، شرح صحيح البخاري، الرياض، ج10، ص 180.

*6

فإن قيل: فقد قال تعالى في سورة النحل *(سلام عليكم ادخلوا الجنة بما كنتم تعملون)* فأخبر أن دخول الجنة بالأعمال أيضاً. فالجواب : أن قوله *(ادخلوا الجنة بما كنتم تعملون)* كلام مجمل يبينه الحديث، وتقديره ادخلوا منازل الجنة و بيوتها بما كمتن تعملون، فالآية مفتقرة إلى بيان الحديث. ابن بطال، شرح صحيح البخاري، الرياض، ج10، ص 181.

*7 有名なハディース集の編纂者の名前。イスラーム教徒、という意味のムスリムではなく、人名(固有名詞)。

*8 日本語訳では、『日訳 サヒーフ ムスリム』第3巻694-96に同趣旨のハディースが所収されている。

*9

قوله: (سددوا) في رواية بشر بن سعيد عن أبي هريرة عند مسلم (( ولكن سددوا ))، ومعناه اقصدوا السداد أي الصواب، ومعنى هذا الاستدراك أنه قد يفهم من النفي المذكور نفي فائدة العمل، فكأنه قيل بل له فائدة وهو أن العمل علامة على وجود الرحمة التي تدخل العامل الجنة فاعملوا واقصدوا بعملكم الصواب أي اتباع السنة من الإخلاص وغيره ليقبل عملكم فينزل عليكم الرحمة. فتح الباري، ج14، ص600.

*10

و في ظاهر هذه الأحاديث دلالة لأهل الحق أنه لا يستحق أحد الثواب والجنة بطاعته و أما قوله تعالى ادخلوا الجنة بما كنتم تعملون و تلك الجنة التي أورثتموها بما كنتم تعملون و نحوهما من الآيات الدالة على أن الأعمال يدخل بها الجنة فلا يعارض هذه الأحاديث بل معنى الآيات أن دخول الجنة بسبب الأعمال ثم التوفيق للأعمال والهداية للاخلاص فيها و قبولها برحمة الله تعالى و فضله فيصح أنه لم يدخل بمجرد العمل وهو مراد الحديث و يصح أنه دخل بالأعمال أي بسببها وهي من الرحمة و الله أعلم. النووي، المنهاج، القاهرة، 1929، ج17، ص 160-61.

*11 あまりに独自性の強い解釈をしている場合には新たな分派を形成するため、スンナ派内にはそれほど大きな相違が残存していないとも言える。