アッラーが全知で全能であるという立場は、人間の知識や知性の限定性を強調します。先ほどのアル=ナワウィーの注釈書には次のような記述があります。
スンナ派においては、理性によっては(アッラーからの)報酬、懲罰、義務の命令・禁止の命令とこれら二つ以外の義務負荷(つまり推奨行為と忌避行為)が確定することはなく、これら全てとこれら以外(の事柄)は啓示による以外には確定することはない*1。
上で言う報酬、懲罰とは来世における報酬(=楽園・天国)と懲罰(=火獄)、つまり信仰箇条に関わるような事項、義務・禁止の命令とは礼拝などと言った行為規範に関する事項を指していると思われます。
つまり、アッラーの存在、天使の存在といった信仰に関わる部分から、礼拝、斎戒といった行為規範に関わる部分まで、全ては理性のみによって演繹することは出来ず、アッラーからの啓示が必要とされる、ということを意味しています*2。
その背景には、人間の理性には限界がありイスラームの理解には啓示すなわち神からのメッセージが必要不可欠であるという思想が存在します。
啓示がイスラームの理解に必要不可欠であることについて、現代のイスラーム学者であるイブン・アル=ウサイミーンは以下のようなファトワー(教義判断)を出しています。
質問:人間は神の唯一性に関し無知(الجهل)によって免責されるか?
回答:無知による免責は確定している。というのもアッラーは(クルアーンにおいて)次のように言われている。
まことにわれらは、おまえに啓示した。ちょうどわれらが、ヌーフと彼以降の諸預言者に啓示したように、また、イブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアクーブ、その子孫たち、イーサー、アイユーブ、ユーヌス、ハールーン、そしてスライマーンに啓示した。また、われらはダーウードに『詩篇』を授けた。(4:163)
またわれらがすでにおまえに語った使徒たちと、まだおまえに語っていない使徒たちを。また、アッラーはムーサーに御言葉を語りかけ給うた。(4:164)
吉報伝達者であり警告者である使徒たちで、それは、使徒たちの後で人々にアッラーに対して異議のないようにするためである。アッラーは威力比類なく、英明なる御方であらせられた。(4:165)
われらは、使徒を遣わすまで懲罰を下す者ではない。(17:15)
アッラーは、一旦民を導いた後は、彼らが畏れ身を守るべきことを彼らに解明するまでは彼らを迷わすようなことはなし給わない。まことにアッラーはあらゆることについて知り給う御方。(9:115)
また、預言者ムハンマドのハディースに「私の生命がその手中にある方(=神)にかけて、人々のうちユダヤ教徒であれキリスト教徒であれ私について聞いたにも関わらず私のもたらしたものを信じなかった者で、火獄の住民でなかった者はない」とある。
このような明文は数多くあり、無知であった者はその無知により宗教(=イスラーム)に関する事柄のうち何であれ責を問われることはない。しかしながら知られるべきは、無知な者の中でもある種の頑迷さを有する者、すなわち(イスラームという)真理が告げられたにも関わらずそれについて精査せず従うこともしない者、否、祖先達の(宗教的)立場に立って祖先を賞賛し従う者は免責されないというのが真実である。というのも、彼には(イスラームに関する)明証がもたらされ、少なくとも真理を明らかにしなければならない(動機となる)疑念が生じた(はず)だからである。(祖先などの)追随される者を賞賛するものの有様は次のクルアーンの言葉に表現されている者達の様子のようである。
いや、彼らは言った、「まことにわれらは、われらの祖先が一つの宗派の上にあるのを見いだし、またまことにわれらは彼らの足跡の上にあり、導かれる者である」。(43:22)
そしてこのように、われらはおまえ以前にも町に警告者を遣わしたが、その奢侈な者たちは、「まことに、われらはわれらの祖先が一つの宗派の上にあるのを見いだし、またまことにわれらは彼らの足跡の上を辿る者である」と言わずにはいなかった。(43:23)
従って重要なのは、人間が免責されるような無知とは真実を知らず知らされることもないことを意味し、このような無知は罪を解消するのである。このような無知な者は、その行為に従って判定される。すなわち、もし彼がムスリム達(イスラーム教徒)に属し「アッラー以外に神はなくムハンマドはアッラーの使徒である」と証言するのであれば彼らの一部と見なされ、ムスリムに属さないのであれば現世に於いて所属する宗教の徒として判定される。
それに対し、来世においては同人は「中間時の民」(أهل الفترة)として遇され、彼の事柄は審判の日にアッラーに委ねられる。中間時の民に関する最も信頼おける伝承によると、神の望まれる試練を受け、従った者は楽園に入り、逆らった者は火獄に入るという。
しかしながら、現代、様々な報道機関の存在や人々の交流によって、預言者ムハンマドの宣教が到達しなかった場所は存在しないかのようであり、不信仰は頑迷さによると思われる*3。
イブン・アル=ウサイミーンの議論は次のように要約されます。
①クルアーン(コーラン)の章句などを典拠として、イスラームの教えに無知であった者は免責されるというのが原則です。
②但し、(イスラームという)真理が告げられた後で、それを精査しないか拒絶した場合は免責されません。
③現世においては、このような無知な者は(表面的に)ムスリム(イスラーム教徒)であればムスリムとして見なされ*4、他の宗教に属する者はその信徒として遇されます。
④来世においては「中間時の民」として遇され、その命運はアッラーの元にあります。
⑤イブン・アル=ウサイミーンは、通信技術や報道が発達し人々の移動が活発になった現代社会では、イスラームの宣教の到達しない地域はほぼ存在しないと見ています。
イスラームについての情報が正確に伝達するまでは改宗などの義務は生じない、というのがイスラームの基本的な理解です。これは、正確な情報伝達の必要性がなければそもそも神によって預言者や使徒が派遣される必要性が存在しないことからも明らかです。預言者や使徒の最大の使命は、アッラーからのメッセージを正確に伝えることです。
預言者が遣わされた後、徐々にその教えが忘れ去られ、アッラーの教えの空白期が発生し、その後に新たな預言者が新たに派遣され、またその教えが忘れ去られ、とこれを繰り返してきたというのがイスラームの考える人類史であり、預言者の派遣に終止符を打つのが「最後の預言者」ムハンマドであった、というのがイスラームの教義の核心です。なお、「中間時の民」というのは、このようなアッラーの教えの空白期に生きた人々のことを言います*5。
イブン・アル=ウサイミーンは技術の発達によってイスラームの宣教が到達したと牧歌的な理解をしていますが、イスラームやムスリムに関する報道の内容は斟酌していませんし、人々の移動が容易になったことによって却って摩擦や不理解が生じるという負の側面についても考慮していないため、その分を差し引いて考える必要があると思います。
*1 ↑
*2 ↑ 神の存在は理性のみによっても証明されうる、との立場(マートゥリーディー派)も存在する。
*3 ↑
فأجاب بقوله : العذر بالجهل ثابت في كل ما يدين به العبد ربه ؛ لأن الله سبحانه وتعالى قال : ( إنا أوحينا إليك كما أوحينا إلى نوح والنبيين من بعده ) حتى قال عز وجل : ( رسلاً مبشرين ومنذرين لئلا يكون للناس على الله حجة بعد الرسل ) ؛ ولقوله تعالى : ( وما كنا معذبين حتى نبعث رسولاً ) ؛ ولقوله تعالى : ( وما كان الله ليضل قوماً بعد إذ هداهم حتى يبين لهم ما يتقون ) ؛ ولقول النبي صلى الله عليه وسلم : ( والذي نفسي بيده لا يسمع بي أحد من هذه الأمة يهودي ولا نصراني ثم لا يؤمن بما جئت به إلا كان من أصحاب النار ) ، والنصوص في هذا كثيرة ، فمن كان جاهلاً : فإنه لا يؤاخذ بجهله في أي شيء كان من أمور الدين ، ولكن يجب أن نعلم أن من الجهلة من يكون عنده نوع من العناد ، أي : إنه يُذكر له الحق ، ولكنه لا يبحث عنه ، ولا يتبعه ، بل يكون على ما كان عليه أشياخه ، ومن يعظمهم ، ويتبعهم ، وهذا في الحقيقة ليس بمعذور ؛ لأنه قد بلغه من الحجة ما أدنى أحواله أن يكون شبهة يحتاج أن يبحث ليتبين له الحق ، وهذا الذي يعظم من يعظم من متبوعيه شأنه شأن من قال الله عنهم : ( إنا وجدنا آباءنا على أمة وإنا على آثارهم مهتدون ) ، وفي الآية الثانية : ( وإنا على آثارهم مقتدون ) ، فالمهم : أن الجهل الذي يُعذر به الإنسان بحيث لا يعلم عن الحق ، ولا يذكر له : هو رافع للإثم ، والحكم على صاحبه بما يقتضيه عمله ، ثم إن كان ينتسب إلى المسلمين ، ويشهد أن لا إله إلا الله وأن محمَّداً رسول الله : فإنه يعتبر منهم ، وإن كان لا ينتسب إلى المسلمين : فإن حكمه حكم أهل الدين الذي ينتسب إليه في الدنيا ، وأما في الآخرة : فإن شأنه شأن أهل الفترة ، يكون أمره إلى الله عز وجل يوم القيامة ، وأصح الأقوال فيهم : أنهم يمتحنون بما شاء الله ، فمن أطاع منهم دخل الجنة ، ومن عصى منهم دخل النار، ولكن ليعلم أننا اليوم في عصر لا يكاد مكان في الأرض إلا وقد بلغته دعوة النبي صلى الله عليه وسلم ، بواسطة وسائل الإعلام المتنوعة ، واختلاط الناس بعضهم ببعض ، وغالباً ما يكون الكفر عن عناد . مجموع فتاوى ورسائل فضيلة الشيخ محمد صالح بن العثيمين، 1413 هـ، ج2، ص127-129.
*4 ↑ イブン・アル=ウサイミーンの想定する表面的ムスリムとは、アル=ウサイミーンの規定する「神の唯一性」を理解していないムスリムを意味すると思われる。
*5 ↑ 「中間時の民」に関するアシュアリー派及びマートゥリーディー派の議論については、中田 考「救済の境界―イスラームにおける異教徒の救済」『一神教学際研究(JISMOR)』第2号、2006年を参照。http://www.cismor.jp/jp/research/jismor.html