現代の著名なイスラーム学者であるアル=カラダーウィーは、『ユダヤ教徒及びキリスト教徒の不信仰に関するイスラームの信仰的立場』*1という直截的な題名の作品を著しています。
同書の議論を以下に紹介します。
ユダヤ教徒やキリスト教という啓典の民が不信仰者ではないと主張する者達について言えば、その主張がユダヤ教徒やキリスト教徒が神性や啓示を否定する無神論者ではないという意味に於いてであれば、このような主張は正しく、異論は許されない。
また、その主張がユダヤ教徒やキリスト教徒が預言者ムハンマドの教え、ムハンマドの使徒性、クルアーンを否定する者(カーフィル)――そしてこれこそが不信仰(クフル)の意味するところなのであるが――ではないという意味に於いてであれば、このような主張は明らかに間違っている*2。
アル=カラダーウィーはユダヤ教徒とキリスト教徒の不信仰*3についてはムスリムの共同体(ウンマ)の合意があり、これまでの歴史に於いてシーア派、スンナ派、ムウタズィラ派、ハワーリジュ派においても、現存するスンナ派、12イマーム派(シーア派の主流)、ザイド派(シーア派の一派、現在はイエメン北部を中心に存在)、イバード派(ハワーリジュ派の一派、現在はオマーンを中心に存在)においても異論は存在しないとしています*4。
以上の議論を纏めたのが下の表です。
アル=カラダーウィーの論じるムスリム、啓典の民、不信仰者、無神論者の分類表 | ||
---|---|---|
はい | いいえ | |
イスラームの教えを信じるか =神の唯一性と ムハンマドの使徒性を認めるか |
ムスリム (イスラーム教徒) |
不信仰者(カーフィル) =非ムスリム |
神性と啓示の存在を信じるか |
啓典の民 =ユダヤ教徒と キリスト教徒 |
無神論者 |
※この表には表題の4範疇以外の範疇、例えば仏教徒等は含まれていない。 出典:筆者作成 |
つまり、上の図からも明らかなように、イスラームのいう不信仰とは、イスラームの教えを信じないこと、すなわち「非イスラーム」を意味することが分かります。
また、アル=カラダーウィーの議論を以下のようなフローチャートにすると、イスラームの言う不信仰者がキリスト教徒やユダヤ教徒から無神論者までを含む幅広い概念であることが分かります。
さらに、アル=カラダーウィーは次のように続けます。
私が彼ら(非ムスリム)に対して不信仰という判定を下す際には現世における判定を意味している。人々はイスラームにおいては2つの範疇に分けられ、第3の範疇は存在しない。つまり、ムスリムであるか、不信仰者であるかのどちらかである。従って、ムスリムでない者は不信仰者(カーフィル、非ムスリム)である。
しかしながら、不信仰者達(クッファール)には様々な種類や程度が存在し、彼らの中には啓典の民と多神教徒、また唯物論的無神論者もいれば、さらには平和的な者もいれば、敵対的な者もいる。そして、彼らにはそれぞれの規定が存在する。
以上により、不信仰者というのが非ムスリムを意味し、その指示する対象は多様であることが明らかになりました。ここで重要なのは、ある人物が非ムスリムであったとしても、それは現世における判断であるという一文です。この一文は極めて重要です。この文章の重要性は、以下の続きから明らかになります。
これに対し、来世での諸規定に関して、このような非ムスリムが救済されるのか、それとも懲罰を受けるのか(という問題がある)。これは、至高なるアッラーの知識と公正さに委ねられる。
アッラーは「われらは、使徒を遣わすまで懲罰を下す者ではない。」(17:15)と仰っている。従って、そもそも(イスラームの)宣教の到達していない、あるいは理論や精査を伴った魅惑的な(イスラームの)伝達の到達していない、あるいは圧倒的な障害によりイスラームへの入信が妨げられている不信仰者はアッラーの公正さと約束のおかげで(来世で)懲罰を受けることはない。
クルアーン(コーラン)は(イスラームという)導きが明らかにされた後で尊大さ・高慢さ*5ゆえに、あるいは嫉妬や反抗心*6ゆえに、あるいは現世への執着ゆえに、あるいは(伝統や他者への)盲従ゆえに使徒と対立した者に(火獄を)約束するのである。アッラーが
導きが明らかにされた後で使徒と対立し、信仰者の道でないものに従う者、われらは彼に自分で引き受けたものを任せ、彼を火獄にくべる。なんと悪い行く先であることか。(4:115)
と言われているように*7。
議論を要約しますと、
①非ムスリム(不信仰者・異教徒)の救済の可否はアッラーのみが決めることが出来ます。
②「われらは、使徒を遣わすまで懲罰を下す者ではない。」というクルアーンの章句があるので、この章句に当てはまるとアッラーに認められた非ムスリムは懲罰を受けることはありません。
③「使徒を遣わす」という語句が、宣教の到達、理論や精査を伴った魅惑的な(イスラームの)伝達、圧倒的な障害の不在、として解釈されています。
④クルアーンの章句を根拠として、火獄が約束された非ムスリムとは「使徒と対立」した者であるとされます。
⑤「使徒と対立」するためには、まず最初に導きが明らかにされる必要があり、その後、尊大さ・高慢、嫉妬・反抗心、現世への執着、(伝統や他者への)盲従を原因としてイスラームの宣教と対立することと解釈されています。
アル=カラダーウィーの議論は、「中間時の民」の理論を背景にしていることは間違いありません。「われらは、使徒を遣わすまで懲罰を下す者ではない。」というクルアーンの章句が「中間時の民」の最も有名な根拠です。また、カラダーウィーが宣教の到達の有無を議論しており、考察の対象が理解能力のある成人であることも明らかです*8。
アル=カラダーウィーは、イブン・アル=ウサイミーンと同じく「中間時の民」の理論に基づいた議論を展開していますが、結論はイブン・アル=ウサイミーンのそれとは少し違います。
両者とも、イスラームの教えの到達していない人々は免責されるという点では一致していますが、イブン・アル=ウサイミーンは技術の発達によりイスラームの教えの到達していない地域はほぼ存在しないと判断しているのに対し、アル=カラダーウィーはイスラームの教えの到達とは何を意味しているのかを問うています。すなわち、イスラームの宣教の内実を問題としています。それは、「そもそも(イスラームの)宣教の到達していない、あるいは理論や精査を伴った魅惑的な(イスラームの)伝達の到達していない、あるいは圧倒的な障害によりイスラームへの入信が妨げられている不信仰者はアッラーの公正さと約束のおかげで(来世で)懲罰を受けることはない」との表現に表れています。つまり、イスラームについての皮相的な情報や、ムスリムに関連する事件の報道等はイスラームの伝達(宣教)の名に値しないとの判断が働いているものと思われます。
*1 ↑
*2 ↑
و إن كانوا يقصدون أنهم ليسوا كفاراً بدين محمد و رسالته وقرآنه – وهو المراد من إطلاق الكفر عليهم – فهذه دعوى باطلة من غير شك. يوسف القرضاوي، موقف الإسلام العقدي من كفر اليهود والنصارى، بيروت، 2000، ص8.
*3 ↑ ただし、アル=カラダーウィーは「アッラーはユダヤ教徒やキリスト教徒の経典の保持を保証されなかった、否、その信徒がその経典を保持しようとしたのである。(神が保持を保証されなかった)結果、経典には歪曲・改変が行われた」として、不信仰者と見なされるのは経典が改編された後のユダヤ教徒、キリスト教徒であることが明らかにされる。従って、生前のモーゼやイエスの教えそのものに従った信徒は不信仰者とは見なされない。とはいえ、アル=カラダーウィーはムハンマドの派遣によって過去の律法などは廃棄されたとの立場に立つため、現在のユダヤ教徒、キリスト教徒は不信仰者(非ムスリム)と見なしている。
رابعاً: كيف يكون من المنطقي ألا يكلف أصحاب الكتب والشرائع السابقة اتباع شرعة القرآن، والله تعالى لم يتكفل بحفظ كتبهم، بل استحفظها أهلهم، و لهذا حرفت تلك الكتب و بُدِّلت، و ذلك؛ لأن هذه الشرائع كانت محدودة في المكان و في الزمان، فكل هؤلاء الرسل بعثوا إلى أقوامهم، لا إلى الناس كافة، و بعثوالهم في فترة معينة، لا برسالة خاتمة و لا خالدة، بل كل منهم بشَّر بنبي يأتي بعده. موقف الإسلام العقدي من كفر اليهود والنصارى، ص44-45.
*4 ↑
*5 ↑ 真理に従うよりも自尊心に従った、というような意味。
*6 ↑ 預言者ムハンマドが生きた時代においては、自らの一族出身ではないムハンマドが預言者を名乗ったことに対して嫉妬が生じたことを背景においた表現。
*7 ↑
*8 ↑ 中間時の民の理論に似たものとして、幼くして亡くなった子供の救済に関する議論があるが、後者においては子供がイスラームの教えを理解する能力が無いとの前提に立った理論展開がされる。義務負荷に関する議論においては、(1)能力の存在(理解力など)、(2)知識の存在(イスラームの教えの到達の有無等)を巡った議論がなされるが、中間時の民の理論は(2)を中心的に、幼くして亡くなった子供の理論は(1)を中心的に扱う。