「すべての生起するものに関し、その生起には原因がある」という考え方は、そのままでは「結果 ⇒ 原因・結果 ⇒ 原因・結果 ⇒ 原因・結果 ⇒ 原因・結果 ⇒ 原因・結果………」というように、無限にさかのぼることのできる原因と結果の連鎖が生じてしまいます。
ここで、「<生起するもの>ではない存在」、あるいは「移ろいゆかない特別な存在」を仮定すると、「結果 ⇒ 原因・結果 ⇒ 原因・結果 ⇒ 原因・結果 ⇒ 原因・結果 ⇒ <生起するもの>ではない存在」というように、原因と結果の連鎖が最終的な落ち着き先にたどり着くことができます。
「<生起するもの>ではない存在」というのは冗長な表現ですが、イスラームではこれを簡潔に「無始の存在」と呼びます。
イスラームの諸学問の権威であるガザーリー(西暦1111年没)は、以下のように説明しています。
我々は世界の存在にとって原因が必要であると証明したが、我々はこの原因は無始であると主張する。というのも、もしその原因が生起するものであったならば、その原因は別の原因を必要とする。さらに、この別の原因は、更なる別の原因を必要とする。(この場合、可能性はふたつあるが、)このような連鎖が、限りなく続くというのは不可能である。(もうひとつの可能性は)このような連鎖が無始なる存在に終着し、そこで止まるということは確実である。これこそ我々が求めるものであり、我々はそれを「世界の創造者」と呼ぶ。(ガザーリー、『イスラーム神学綱要』、35ページ、私訳)*1。
以上をまとめると、「アッラーを創った存在は何なのだろうか」という疑問に関する答えは、およそ次のようなものになるかと思います。
この世界にある全てのものは、その始まりに原因を必要とする移ろいゆくものですから、始まりと終わりという限界の中にあります。それに対して、アッラーは他に原因を必要とするような移ろいゆく存在ではないため、始まりと終わりという限界も有していません。アッラーはこの世界に存在する全ての限界(時間、空間、などなど)を超越した存在であるので、「原因と結果」という法則性にも縛られることもありません。
このような考え方は、強弱の違いはあっても一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)に共通した考え方だと思います。一神教世界の人間が「神」という言葉を使うときには、以上のような考え方が背景にあるのだ、日本語の「神」という言葉とはかなり違うらしい、ということに気をつけるとお互いに誤解を招かずにすむと思います。
(K.S.)
*1 ↑
ندعي ان السبب الذي اثبتناه لوجود العالم، قديم؛ فانه لو كان حادثا لافتقر الى سبب آخر. و كذا ذلك السبب الآخر، و يتسلسل اما الى غير نهاية و هو محال؛ و اما أن ينتهي الى قديم، لا محالة يقف عنده. و هو الذي نطلبه، و نسميه صانع العالم.
なお、ガザーリーの同書は中村廣治朗により翻訳され、『中世思想原典集成11 イスラーム哲学』(平凡社)に収められている。