b.イスラーム文化 ―イスラームの固有性の源泉―

 さて、「イスラーム思想」がイスラームのヘレニズム的側面を明らかにしているとすれば、イスラームの固有性は何処から出てくるのでしょうか。井筒俊彦は、『イスラーム文化 ―その根底にあるもの』(岩波文庫、1991年刊)において「イスラーム文化を他の文化から区別して、それを真にイスラーム的たらしめているもの」、「イスラーム文化をしてイスラーム文化たらしめている要素の中で特に顕著なものいくつかを取り出して、それを皆様と御一緒に考察してみたい」と述べ、イスラームの固有性を構成する要素について記しています。
 ここで、「イスラーム文化」というのは、何を意味しているのでしょうか。英語を母語としない学習者向けに編まれたCollins COBUILD Advanced Learner’s English Dictionary CD-ROM版(2003年版)は文化を主に以下の3つに分類します。

  1. 文化とは、文芸や哲学といった、文明や人々の精神・知性の発展に重要であると考えられる諸活動により構成されるものを指す。
    用例:庶民文化の諸相。フランスの教育・文化大臣。
  2. 文化とは、特に信条、生活様式、文芸から見た、特定の社会や文明を指す
    用例:様々な文化出身の人々。私は、「得たものは、社会に還元しなければならない」という文化に育った。
  3. 特定の組織や団体の文化とは、その内部の人々の習慣と一般的な行動様式により構成されるものを指す。
    用例:しかし、ソーシャル・ワーカー達は、このことが特に都市部において依存の文化を作ってしまったと言う*5

 井筒俊彦の『イスラーム文化』が扱うのは文学、美術、建築、音楽といった意味での「文化」ではなく、上記2.の内容に相当することに注意を払う必要があります。ですから、同書のタイトルを『イスラーム文明』と読み替えても、そう大きく外れてはいません。同書は、昭和56年(西暦1981年)の3-4月に財界人を中心とした聴衆に対して行われた講演を元にしていますが、時代背景としては73年のアラブ諸国の石油戦略発動に伴ういわゆるオイル・ショックに始まり、79年にはイラン革命とマッカ(メッカ)のカアバ神殿占拠事件が起こり、80年のイラン・イラク戦争開始、81年10月にはサーダート(サダト)大統領が暗殺されるといった一連の事件があり、井筒俊彦自身も、イラン革命に向けた動きが激化する中、日本に帰国した経緯があります。
 この時期に、中東に関する日本人の関心は急激に高まりましたが、それにはある種の衝撃が伴っていました。そのような中、『イスラーム文化』は、イスラームの固有性が如何にしてあり得るのかを明晰な論理で答えていきます。
 同書は「Ⅰ 宗教」、「Ⅱ 法と倫理」、「Ⅲ 内面への道」の3部構成となっており、その概要は以下のとおりとなっています。
 「はじめに」では、(1)イスラームについて知ることの時局的意義と(2)国際化、「地球社会」実現の過程における「文化的枠組み」の対立と文化的創造性(カール・ポッパー)、異文化間対話の重要性が指摘されます。
 「Ⅰ 宗教」では、イスラーム文化の国際性、イスラームが砂漠のベドウィン(砂漠的人間)の宗教であるとの誤解、イスラームにおける契約と信義の重要性、「イスラーム文化は究極的には『コーラン』の自己展開」(33頁)であること、「ハディース」(預言者ムハンマドの言行録)の重要性、「本物、偽物とりまぜて何万という数の『ハディース』が『コーラン』の周りを十重二十重に取り囲みまして、まんなかにある『コーラン』はそのプリズムを通して種々様々の意味に分裂して解釈され」(34頁)ること、「イスラーム文化は『コーラン』をもとにして、それの解釈学的展開としてでき上がった文化である」(37頁)こと、イスラームが「いわゆる神の国と人間の国」を区別せず「存在に聖なる領域と俗なる領域とを、少なくとも原則としてはまったく区別しない」(40頁)こと、「コーラン」解釈の相違によって分裂しつつも「本源的な内的統一性」(45頁)を保持したこと、「共同体(ウンマ)の秩序維持に責任ある指導者」(47頁)がウラマーであること、「ウラマーとは、『コーラン』とそれに関連する学問を専門に研究する人」(48頁)であること、「『アブラハムの宗教』、つまり最も純正な形での絶対一神教」を「根源的、形而上的理念に最も近い純正な形で、つまり真にアブラハム的な姿で、立て直そうと」する「古い宗教、永遠に古い宗教」(55頁)としてのイスラームの自己認識、「アブラハム的宗教」とは「神と人との垂直的関係、タテの人格的関係」(56頁)に単純化されること、啓示と預言者、「生きた人格的神」(61頁)であるアッラー、イスラームとは「絶対他力信仰的」な「絶対帰依」(63頁)であること、アッラーの「絶対的唯一性」(65頁)、「神的でも天使的でもない」「めしを食い、市場を歩く」人間としての預言者ムハンマド(72頁)、アッラーの全能性、「原子論的存在論」(76頁)等に言及されます。
 「Ⅱ 法と倫理」では、「宗教と法、あるいは宗教と倫理とは密接に結びついて一体化」し「スンニー派は、イスラーム即イスラーム法、つまり宗教即法律といういわば極端な立場をと」(83頁)ること、「コーラン」の内容が啓示時期により違い「前期メッカ期」は「天地終末の生々しいヴィジョンの醸し出す重くるしい雰囲気の中で」「人間がたった独りで神の前に立つ」(86頁)ような内容であり、人間が持つ「ともすれば悪に走ろうとする己れの内的傾向性の自覚と反省から」(90頁)出てくる「タクワー=怖れという実存的情念」(91頁)が「『信仰』の同義語として」使われることが「メッカ期の啓示の決定的な特徴」(92頁)であること、「後期メディナ期」では「人間にたいする神の恵み、恩寵として考えられた被造物」が「神兆みしるし」(102頁)と呼ばれ、「神の限りない慈悲慈愛に」対する「『感謝』がすなわち『信仰』の同義語であり、同時にまたこの時期を特徴づける人間の倫理性」(105頁)であること、「メディナ期では、第一次的に神と契約を結び、神と倫理的関係に入った人間同士の、お互いの間の契約的に成立する人間的倫理学」(109頁)が成立したこと、この時期に「イスラームが社会性を帯びて、一つの社会的宗教に転生」していき「『共同体』」(112頁)が成立したこと、イスラームが「社会、すなわち共同体の統一性の原理として、血のつながりに代る信仰のつながりを立て」、「普遍性、あるいは世界性」(122頁)を帯びたこと、「イスラーム共同体=ウンマは神に選ばれた特殊な共同体では」あるものの「開放的」で「それにいったん入ってしまえば、全ての人は互いにまったく平等になる」(124頁)「特殊な社会契約的平等」(125頁)を理念としたこと、イスラーム共同体は「イスラーム教徒がいちばん上に立ち、その下に複数のイスラーム以外の宗教共同体を」「特別の税金」が課せられた「『被保護者』」(128頁)として含んだこと*6、キリスト教的な原罪や仏教的なごう(カルマ)の観念の不在、「メディナ期のイスラーム」における「正義の社会につくり直していこうという積極的態度」(137頁)、「現世的生活を神の意志に従って正しく建設していく道として、政治がすなわち宗教でもある」(141頁)こと、「聖俗を分離することなしに、しかもイスラーム社会を科学技術的に近代化することが果たしてできるだろうか」という「現在すべてのイスラーム国家が直面している」「大問題」(143頁)があること、「絶対善、相対善、善悪無記、相対悪、絶対悪をイスラーム法では5つの最も基本的な倫理的範疇と」(147頁)すること、イスラーム法理論における「命令法の構造的意味」(150頁)の研究の発達、イスラーム法の法源論、「『ハディース』を研究しなければイスラーム研究は全然始まらないといってもいい」(155頁)こと、「法律の源は聖典、つまり神の啓示であり、それの法的解釈は純粋に論理的であ」り「イスラーム法はこの点で啓示と理性のきわめてイスラーム的な出会い」(157頁)であること、シャリーアの語源、イスラーム法学書の章立て、「西暦9世紀の中頃」に起きた「個人が自由に『コーラン』と『ハディース』とを解釈して、法的判断を下すこと」の禁止、すなわち「『イジュティハードの門の閉鎖』」(162頁)とその現代的意味などが指摘されます。
 「Ⅲ 内面への道」では、「『外面への道』」が「イスラーム法の堅固な形式的枠組みでがっしり外側を固めた共同体の宗教として、イスラームを盤石の礎の上に樹ち立てたウラマーたち」の道であること、「『内面への道』」が「感覚や知覚や理性ではぜんぜんとらえることのできない事物の隠れた次元、事物の存在の深層、深み」を探求する「ウラファー」(172頁)の道であること、ウラマーが体制派であるのに対しウラファーが反体制派として「しばしば(中略)迫害され、殺戮され」(175頁)たこと、宗教一般にみられる「顕教と密教」(177頁)の区別、イスラーム的「顕教」における「『シャリーア』」の重要性とイスラーム的密教における「『ハキーカ』」つまり「『内的真理』とか『内面的実在性』」(179頁)の重要性、「内面への道」が「一つはシーア派的イスラーム、もう一つはスーフィズムの名で西洋で知られておりますイスラーム神秘主義」の2系統に大別されること、「シーア派の人々にとっては、『コーラン』は一つの暗号書」(185頁)であること、「暗号解読、つまり外面的意味から内面的意味に移る解釈学的操作を、シーア派の独特の術語でta’wīl(タアウィール)と」(186頁)呼ぶこと、「シーア派は、その根本的立場上、聖と俗をはっきり区別する」(188頁)こと、「シーア的霊性の最高権威者」(190頁)であるイマームとは預言者ムハンマドの娘婿であるアリーの直系子孫で「神の啓示の言葉の内的意味、精神的意味、つまりハキーカを体認した人」(191頁)であること、シーア派における外的啓示と内的啓示、第12代イマームが「存在の目に見えぬ次元に身を隠した」とされる「『お隠れ』」(198頁)とイマーム不在期の統治者として「知徳衆に優れた最高のシーア派の学識経験者」(204頁)か「シャー、即ち王」(205頁)があり得ること、他方、イスラーム神秘主義においては「ハキーカに直通した人」を「ワリー(walī)」(210頁)と呼ぶこと、シーア派とは違い「修行によってワリーになる」(211頁)ことができること、「スーフィズムとは人間の実存の奥底に潜む内在神と、人間自身との極度に親密な秘密の関わりを人間が自覚すること」(212頁)、スーフィー(イスラームの神秘化)が「現世否定(中略)具体的には禁欲生活、苦行道の実践」(213頁)を行い「パトス的には厭世主義、ロゴス的には現世逃避思想」(214頁)を取ること、「スーフィズムは、概して反シャリーア的」(215頁)であること、修行道における「自己否定、つまり自我意識の払拭」(220頁)が重視されること、「スーフィーの体験的事実としての自我消滅、つまり無我の境地とは、意識が空虚になりうつろになってしまうことではなくて、むしろ逆に、神的実在から発出してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化し、光以外の何ものもなくなってしまうということ」(221頁)などが述べられます。
 以上、井筒俊彦の『イスラーム文化』の概要を纏めましたが、同書ではコーラン(クルアーン)とハディースの重要性がたびたび説かれ、イスラームにおける啓示解釈の重要性が繰り返し指摘されています。つまり、イスラームの独自性を決めるのはヘブライズム的伝統であるであるということで、一見するとヘブライズム的伝統とは無縁そうに見える「Ⅲ 内面への道」においてすら、タアウィールが果たした重要性が説かれています。若松英輔によれば、「井筒俊彦は、自らイスラーム学者だと名乗ったことはない」*7のだそうですが、その理由は、彼の主な関心がコトバや哲学、神秘主義思想などにあり、啓示解釈の伝統の重要性についてはそれを熟知しつつも主体的関心を寄せなかったことにあるといえるでしょう。
 では、イスラームのヘブライズム的伝統、すなわち、ウラマー達が研究した「『コーラン』とそれに関連する学問」とはどのような学問であったのかを次節で見たいと思います。


*5 Culture
(1) Culture consists of activities such as the arts and philosophy, which are considered to be important for the development of civilization and of people’s minds.
…aspects of popular culture.
…France’s Minister of Culture and Education.
N-UNCOUNT
(2) A culture is a particular society or civilization, especially considered in relation to its beliefs, way of life, or art.
…people from different cultures…
I was brought up in a culture that said you must put back into the society what you have taken out.
N-COUNT
(3) The culture of a particular organization or group consists of the habits of the people in it and the way they generally behave.
But social workers say that this has created a culture of dependency, particularly in urban areas…
N-COUNT: usu with supp
(c) HarperCollins Publishers.

*6 : 但し、井筒は同書において「被保護者」つまり庇護民として認められ得るのは「啓典の民」のみであるとしているが、実際には背教者が庇護民となり得ない点で合意が成立していることを除けば、庇護民となりうる不信仰者の範疇に関する規定は法学派間における相違がある。この点については、中田考「シーア派法学における古典ジハード論とその現代的展開:スンナ派法学との比較の視点から」『山口大学哲学研究』vol.15(2008/03), pp5-7(http://www.lib.yamaguchi-u.ac.jp/yunoca/handle/C070015000002)が参考になる。

*7 : http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/doc/x0y0.html